四五一 明治元年十二月 維新に付鎮守氏子議定

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(平方宇田川家蔵)

  差上申取極一札之事

一当村字戸崎組鎮守社之義、是迄西光寺持ニ而別当罷在候処、今般 王政御一新ニ付神仏混淆不致様ニ被仰出候間、別当熟和之上氏子ゟ神職人相立候ニ付、取極左之通り

一稲荷社之義は是迄之通り西光寺持ニ居置、除地内ニ有之候竹木等猥ニ伐荒不申、何事も一同相談之上ニ可仕筈

一氏子之内ゟ神職人ニ相成候共、鎮守ニ付我意之振舞無之社務其外祈願向相勤、向後猶又両部神道相用ひ候節は、如元形社務等其外祈願向可差戻、且是上祈願受候もの中ニも西光寺相頼候□【筈カ】

一稲荷社御除地之義、此上御除地御縄入等も有之候ハゝ其節組持或は神職持名請何れニ致、一同相談之上ニ可仕筈

 前書之通リ一同相談行届、氏子ニ而神職人相立候共取究之趣決而違義無御座候、依之連印一札差上申所如件、

           平方村戸崎組

  明治元辰十二月    氏子惣代 たれ

             親類惣代 たれ

  西光寺無住ニ付    年寄   兵左衛門

   御本寺養楽寺

     御役僧中