(大松清浄院蔵)
【表紙】
「 六ヶ村
栄広山由緒著聞書
大杉村
川上宗甫」
新方向畑邨新方大霊は俗謂新方様と称す、其先千葉氏之余裔新方大領頼員(ヨリカツ)は源義家朝臣之催促に応奥州に戦功多し、前大平記著(シルス)所新方次郎頼員是也、其十六代玄蕃允頼基(ヨリミチ)五代新方頼希八条与戦不克、八条終に其地を略す、永正辛巳栄広山文誉上人新方俗姓たるか故に兵を卒し八条を逐旧領平呑す、土人上人之功を賞其霊を祀(マツ)る、号て新方様と称、後年祠堂破墳(ハフン)して営む人なし、上人の尊像を画(エカキ)て其忌日祀(マツル)而已
右向畑新方様伝由
武州埼玉郡新方の庄大松邑栄広山清浄院寺号来由 往古下総国葛飾郡、中頃武州葛飾、延宝の末崎玉の郡中ニ加フ
一人皇百二代称光帝御宇応永二拾壱甲午春、葛飾郡新方地頭職向畑城主新方玄蕃允平頼基大檀那とし而、一山仏客僧坊造営する処開山賢真大和尚[其姓源氏兵庫頭頼政卿十七代武州/太田主国名府源三郎紀綱一男ナリ]上人一山住職累年後永享十二庚申京都将軍家関東の公方持氏と確執の事あり、持氏軍敗て自害御子春王丸・安王丸殿東を差して落けり、結城家を頼みたまいしかは結城令承して防禦の備をなし国城に楯籠る、義教大に怒て上杉・千葉・宇都宮・小山(ヲヤマ)・佐野・小田・佐竹等に命東国勢弐拾万余人結城の城壁を取囲責撃事尤励し、しかれとも結城一味の三軍義気最劇(モツトモハケ)しけれは少茂屈セす、突立射立寄手死亡の者屠人の前に至る魚鳥のことく、流石名を得し坂東武士も攻倦んて見へたりけり、此時常州小田讃岐入道光蓮三軍のと司たりしが、軍扇を捧て乗出し大音に呼て是程の小城数日責抜さる事将軍の上聞恐少からす、縦敵の為に討るとも乗越〻〻付入ものならはや、ハや落さてあるへき進めや人〻、今日の軍に太刀打手柄したらんもの恩賞最厚(モツトモアツ)かるへし、又退たらん者ハ前〻抜群の忠ありともむになして本領を召離つべしと下知して、追手搦手弐拾万人一同に囲を作て責懸、腸を履ミ血を渡り透間あらセす攻立しかは、流石少勢の結城衆心斗は強けれとも終に城陥る、君臣数を端【ママ】して亡ひけるこそ是悲もなし、其刻結城衆野木の領主野木大炊秀俊という者無双の勇士にて、数日劇(ハケ)敷防戦して人の眉目を驚し晴なる最期と聞へたり、其妻是を伝へ聞如何ハセんと思案の折柄敵寄来る彼の風聞、一ト先落て忰松寿か運否を計らわんにはと松寿丸を懐き乳母を供ひ、野木の屋形を遠近(ヲチコチ)に忍ひ出南を差して落行しか、かろふして上下の河辺に至り、新方春日辺打過て其先下総の葛飾なる大川戸左衛門太郎か館に忍ひ、暫し隠れて居たりしか、将軍義教下知を伝へ結城の残党極し求め委誅しはたすへしとなり、於爰武総の内渋江・金重・柏崎・白岡・野嶋・八条・大相摸・別府・大曾根・一色の人〻ニ差命、大軍を以大川戸江襲ひ来る彼風説、大川戸左衛門太郎希代の人傑なれは少も騷かす、乱杭逆茂木引渡し防戦の用意頻也、大川戸か類葉武州の私市(キサイ)・清久・高柳の人〻本家救ひのため来ると聞へしかは、野木の後室聞たまへ我身女子の縁を以大川戸ハ勿論類葉の人〻ニまて亡ひ失ハん事歎ても余りあり、しかし母子命を捨ンにはと思ひ定め、頃は嘉吉元辛酉正月廿一日の夜半斗、子息松寿丸をかき懐きなく/\館(ヤカタ)を忍ひ出湖(ミツウミ)さして行道は踏もならわぬ歩行はだし、夫に別れシ去年の春の夢現さへわかぬ間ニ、又も松寿か顔の見納めハ今宵なりとは知らさりし、西も東も知らぬ子を連てよみ路の旅の空、母さへ知らぬ三津瀬川松寿ハ小供の事なればさへの川原へ行ならん、其わかれ路か苦になりて、むねもはりさく思ひそや、とわつと斗に声を揚、人心地もなかりしか又も心をとり直し、乳母か跡にて恨むへし、されとも是ハ生る身や嗚呼迷ふたり、此世は暫し仮りの宿摂取のちかひそたのもしきと、たとりし道も跡や先折柄乳母ハ目を覚し、四方をきっと見廻し御母子臥所におわせねは、はつと驚き外面に走り爰や彼処と見廻りて湖水の上の細道伝へ、行つ戻りつさ迷ふ打柄、遙女の声として南無阿ミた仏と声諸共ニ水音高く聞へしかは、のふ/\と呼声も跡白浪の音絶て松吹風のミ耳に添ふ、乳母ハ目もくれ心消へ夢現をわきかねて、なく音は里のあけ鴉(カラス)はつと驚き見廻わセは、こわ如何に後室若君諸共浪路遙ニ浮給ふ、乳母ハ見る目も気も半乱待セ給へ後室謨遠へやらじ若君と、声を斗に呼〻ハ此世の名残と知られける、大川戸左衛門太郎こし方行末思ひつゝ、今や敵寄来らハ思ふ程戦て死セん事弓箭の面目武士の心かけハ爰なりけり、案んし続て寝もやらす居たりしか、後室の臥戸常にかわりて明たて繁く婦女子を侮り癖者にやと其臥所に行見れは、こわいかに妹か一通の書置左衛門太郎再ひ驚き、書置荒く見も終らす外面に立出暫しあきれて居たりしか、湖中こそ怪しけれと行〻見れはいかにセむ母子乳母諸ともに湖中に浮んて死したりけり、左衛門太郎大きに驚き嗚呼死なしたり不便や、女子ながらも義を重んし我故他の家の亡ひ失ん事を歎きかく計ひける身そ哀れなれと、不覚の涙セきあへす扨【ママ】あるへきあらされは是非もなく野辺送かた上に証しの碑の銘に、名をのミこそは残しける、其怨霊湖中止り三頭一尾の毒蛇と現し時〻働揺し、見るもの身の毛余立て煩わぬハなかりしか、後は此湖辺を往来する者絶〻に湖辺荒地と成たりしは恐ろしき執念なり、文安四丁卯弥生の頃栄広山住僧賢真上人山門の東なる湖上の桜御覧のため暫し花中ニ御遊なり、不思議や湖辺の小道より艶(ミヤヒヤカ)に優(ヤハラカ)かりける婦人上人の御前に跪(ヒサマツキ)て申様、御不審ニも思召されん、殊更女子の身憚少なからすとへい【いへカ】とも上人江一向ねかひたき事あり御許容下されべきやと申けれ、上人聞召仰けるハ何等の条か知らす共、予か力におよはん事ならんには兎も角もと有けれは、女嬉し声なる体にて何を申さんや、みつからは年来此湖中に棲なる三頭一尾の大蛇にて候、兼而上人にも聞へ召されん我身ハ大川戸〓(キヤウフ)次郎か娘今の左衛門太郎か妹、野州野木大炊介か妻女なるか、去ル永享の乱後幼息松寿丸乳母と倶に此湖中に身を没め罪重深重にして五水三熱の苦を請し者に候、然とも主君春王丸安王丸殿始め奉り結城の人と我身母子主従皆以水火刀刃のために死亡、是併京都将軍家の不仁奸悪より起其怨骨髄に徹して、忘れんとすれと忘られす忍はんとすれと忍ハれす、於爰身の罪業重るをもいとハす怨を冥中に訴へ申て天地か凶悪を長育セすと承り伝へたり、願くハ将軍に怨をなさせてたひ【ママ】給へと、若此怨を晴したらんには我徒那由他劫にて、其間悪趣に没むとも又恨ミなけんと強訴(ガウソ)して冥中の勅免を蒙り、赤松殿の怨念に便りて先に将軍家を害し奉り一端忘執を晴したるに似たりといへとも、義教将軍ハ一爓浮提の王者尊貴を弑し奉りし罪遁れかたく永劫出離を知らす、然とも如何なる善因のなす処にや、我徒山門の岐に棲て日夜旦暮称名の御声耳に触れ罪障聊か滅したるに似たり、抑上人の徳たる読経篤信にして三昧の玉を瑩き、三生修道の徳を示して真理高明なる専修称号なり、徳又元祖に等し希ハ大慈大悲を垂たまへて我徒のために一七日称名修行なし給ハらは、我徒五陰生死を離出して山門の守護となし、法意に依怙たるへしと頭をたれ愁〻として訴へ鳴咽(ヲイン)にむセひ泣有様物哀にそ見へたりける、上人不便の身に思召仰ける様は、予か称名の徳たる汝かいふことく人はとくにも来るへきに、是迄もたしける事不審なきにあらすと有けれは、女答へて御命さる事ながら凡人に怨有て祟りをなさんと思ふも、私の力のミを以てなしかたし事を冥中に訴へてゆるされなくては恨をなしかたし、罪障解脱を願ふも又〻斯如く、於爰我徒罪障消滅の事をしば/\冥中へ訴へ奉、今や勅免を蒙りける秋也、此上ハ一(ヒタスラ)向上人の大慈を希ふのミと落涙数日に及しかは上人聞たまひ、尤さあるへし、しからは願のことく念仏修行すへけれとも布施ハ何を以備ふるや、女答へて如何セん我徒畜身にして三宝勝妙の福田に抛(ナゲウツ)ものなし、身力を以山門の東湖を転して岡とセは布セに准へきや否哉、善哉汝か志ハ末代不尽の布施なるへしと仰けれハ、女の形ハ見へすして数丈の大蛇湖中に現して動揺し、紅の口を開燄(ホノオ)をはき出す有様すさましかりける次第なり、上人不便思召文安四丁卯三月廿一日御堂法会を開き大衆を集めて、日夜称名の声絶間なく七ヶ日大念仏修行あり、不思議なる哉廿六日の夜子の刻半斗一山鳴動す、聞人驚く事甚しく、上人少茂騒き給わす静に念仏しておわしましけるか、夜暁て見れはこはいかに、東湖転して岡となり寺中東庭高き事山のことく、難有かりける法施なりと人〻感して止さりける、其地今に至りて蛇塚と唱へ開山塚と中当山開基の霊地にして今に右在したり、抑当山を六ヶ村の御堂と称しける事は人皇百五代後柏原天皇御宇文亀の頃、葛飾東新方領主向畑城主新方次郎太夫頼希主と武州崎西郡八条の領主八条兵衛尉と隙あり、
八条家ハ武蔵七党の内野与党の一人其姓平氏、陸奥国守鎮守府将軍平貞盛の裔也、武蔵七党系譜ハ七党略記に見へたり、新方家は千葉一門前太平記著所新方次郎頼員主、後胤代〻新方の領主たり、
文亀四甲子正月八条兵衛尉平惟茂兵を卒し新方の地を犯す、新方聞と等しく手勢を卒し向畑の城に出馬し小林の郷に対陣して数日挑ミ戦ふ、同月晦日新方頼希兵を進めて大に血戦し八条を追崩し、勝に乗て深入し流箭のために命を落シ新方敗軍す、八条兵衛尉新方の地を合セ領し向畑の城をは其類葉別府三郎左衛門に守らしむ、其頃栄広山の現住高賢上人と聞へしは、其姓平氏向畑の領主新方権頭頼紀の麁長子頼希主の舎兄なれは自然八条と快よからす、八条も高賢師の不敬を悪ミ狩に事寄不意に起り、一山の衆徒を切殺し又ハ追出、仏閣僧坊一宇茂不残焼払ひ、上人を討取らんと山のくま/\さかし求めしかとも、折節上人平方白竜山へ行し跡なれハ虎口を遁れ給ふ、八条聞て白竜山へ押かけしかとも見へされは是まてなりと引揚たり、上人八条か乱妨を聞て東へ向て走り給ふ、土人上人に奉て東の方江御退去覚束なし、是ゟ西へ向て落行給へと御案内申けれは上人大に悦ひ、農夫か案内に任セ西を差して落給ふ、農夫かい/\敷供奉して春日部市のわりの境に至、漁人を頼ミ舟にて大場沼をこし中曾根村まて送、是より渋江に程あるましとわかれてこそハ帰りける、夫〻上人衆徒両三人を倶して角田荒川押渡り武州の地に入給ふ、渋江の欣誉上人を頼ありて年月を送り給へしか、
武陽崎西記第八武州崎西郡渋江寺ハ建暦元辛未野与党渋江金重柏崎野嶋白岡箕勾の一門取造営也、武総両国浄家一統の惣本寺たり、野与党ハ武蔵七党ノ内也、東鑑取載奥ノ大道群盗往来ヲ妨稲毛三郎江戸太郎江国府台国府鳩谷兵衛尉渋江太郎兵衛等に命して大道ノ賊ヲ捕へしむと見へたり、
北条元帥タル時分浄家西国ニ有之寺領也、免状ヲ御直判と唱へ渋江ヨリ添状アリ、両国爰彼処ニ見へたり、栄広山ニ其状数通有之ヨシ、
我身釈門の徒(タクヒ)たといへとも、弓箭の家に生れなから家の滅亡見るに忍ひすと、時〻新方旧恩の人〻に会し其志量を𢰠り一山退去の衆徒を語らひ密に渋江山内に評席を開き、上人仰出されけるハ頼希の敗亡家の退転悲んても尚余りありしかれとも各存し之通り我身釈氏の徒弟たれハ力及ハすといへとも、希くは汝等旧恩を捨づして新方氏の家名再興のはかり事ハなきものにやと愁歎の御ありさまもの哀に見へしかは、人〻共に哀を催して暫し言葉もなかりしか、爰ニ船渡郷住人川田雅楽之助といふ侍席を進て申様、臣等今敵八条か手に属すといへとも身をなじみ不義の禄を喰ふにあらす、時節を見合敵八条兵衛を討亡し御家再興を願ふ処、諸天善神照覧あれ聊不忠仕らす、今般上人の思召立こそ願ふてもなき臣等の悦ひ、殊に上人ハ主家の嫡流にて罷ける上は大将に仰き奉らんに、義戦といゝ弔ひ合戦と申敵八条を討亡ん事日を算へ待へし、一座いかにと申けれは一会言葉を揃へて汝のいふことくなりと異口同音に勇立けれは、上人観喜の眉をひらき先以衆儀悦ひ入処也、しかれとも大将ハ外に求めて賜わり候へ、我身其由緒わさる事なからもと釈門の徒兵革を用ひし事仏佗の上覧其恐れ少からすと仰けれハ、人〻聞て此儀如何あらんと一座しらけて見へける処、爰に一山に聞へたる無量坊豪(カウ)賢といへる悪僧あり、身長け六尺弐寸黒革威に大荒目の金まセたるをきなし、白柄の長刀杖につき大衆の中を押分上人の前に進出、大に呼て評義煩【カ】多し証拠を外にとるへからす、上人武門の家に生れ批評席をひらきながら大将を外に求めんと比興【卑怯】未練論するに足らす、弥佗の利釼を提て怨敵を誅し、称名力をもつて無罪死亡の衆生を済度セんに何条事のけへきと、大の眼をいからし暫しにらみしかは上人怖/\も又道理にも、兎も角も汝等か心にまかセんと仰けれハ左もありなんと豪(カウ)賢評定爰ニに極りける、永正十七庚辰十月高賢上人兵を卒向畑の陣城江押寄、囲を作て責立れハ城持別府三郎右衛門大に愕き得ものを携へ立出しか、元来不意の事なれは討るゝ者多かりける、三郎右衛門鞍坪につゝ立揚り、大音に呼ハり敵ハ誰人にて候と申けれハ、石川兵部左衛門といふもの是を聞て事も愚かや今宵の軍大将ハ、新方氏の御血統にて渡らセ給ふ栄広山高賢上人にてましますそや、悪逆無道の八条の者共命おしくは降参せよ頼希公の弔ひ合戦石川か働き見よ、先年羽入の峯合戦の刻平井万勝民部少輔を組討して、大田殿の称美を蒙りたるものと知りつらんと、大音に呼わり/\黒烟の内に鑓を入前後左右に突立/\其勢ひ鷹(キシ)鶉【ママ】の雀を逐ことく、三郎右衛門大に怒て出家に似合ぬ軍立何程の事かあらん踏散し捨よといゝなから、石川に渡り合火花を散らして切結、八条か郎等赤沼太郎左衛門此動乱を聞て有合手の者三十騎利根川を押渡、上人の後陣より突立けれは既に危く見へたる処、爰に無音坊浄勧坊といふ荒法師大刀打振り壱人は黒革威(クロカワヲトシ)の腹巻白柄の長刀巠短に捧り、赤沼の中陣に突入る事迅(シン)当の撃する如く赤沼勢是かために備乱れて引色に見へしかは、別府三郎左衛門大に歎き此悪僧原【輩】を討とらすは戦難義なるへしと豪賢に突てかゝる、無量坊得たりと飛違ひ別府か兜を破よ砕けよと続けさまに打居へしかは、さしも奸勇ならひなき別府三郎左衛門人馬供に打ひしかれ二言といわす死てけり、赤沼是を見て人数をまとめ夜叉のことく悪戦し敵を討事数知らす、八条かもの共是を見て踏止り〻〻勇を震ふて切返セは上人の御備再ひ危く見へたる処、浄現坊在来聞へたる精兵強弓なれハ、小高き所によぢ登り普通の弓四五人張之引ふセる程なるを、十五束三臥忘るゝ斗引しほり、ひよと射渡志す処の矢坪たかわす、赤沼太郎左衛門か鎧の弦(ツル)走りより総巻付の板にて[ ]【虫喰】重をかけて射通し矢先血しほに染て出たれは、残党いよ/\敗北惣崩れとなりける、高賢上人悦び不斜向畑の城を焼払勝鬨を揚て引取給へ、一山の焼跡に仮の仏閣を営ミ其後遠近に震ひ給ふ、八条兵衛尉此事を聞て大に怒り類葉をかり催し大軍を挙て武州別府に出張し手分を定む、先陣青柳外記左衛門・小作田隼人・柿木小膳八百五拾余人、二陣大相撲飛騨守・西脇左近右衛門・領家八郎・国分寺藤九郎五百余人、八条兵衛尉一千余人軍令を司り永正十八辛巳正月七日千間堀を打越し新方の地に乱入すへしとなり、高賢上人ハ一山の衆徒新方譜代の武士并渋江の加勢を合セて一千三百五十余人を随へて大吉村に出張す、先手ハ手間を前に当て厳重に備へをして、敵寄来らは劇しき一戦して追討にセンと暫し在陣し、敵や寄ると待懸たり、此日大吉郷香取の宮より白鷺夥(ヲヒタゝ)敷南を差して飛行事布を引かことく、浄勢坊在本上人の御前に参り申けるハ、凡合戦の要たる地利方角を以肝要とす聞たり、御陣場既に大吉の郷なり、今般神明擁護の印にや白鷺南に飛行事逆寄セよとの吉ならんか、又方角をいわゝ正月南天道にて吉方類なし、孫子もいわすや兵勝の術ハ密に敵への機をなし其不意を撃いへり、御賢慮候へと申けれハ上人大に悦ひ給ふと申たりとて、正月六日の夜人数を七手になし手間を打越し不意に別府の陣に乱入、陣屋/\に火をはなち黒烟の中に攻立けれは八条勢狼騒き、頼切たる八条か武士別府青柳柿木等乱軍之中に討れしかは、敗軍東陣になたれ懸りてぃかんともすべきよふなし惣敗軍となりたり、此時八条か叔父大曾根上野介といふもの今宵瓦曾根に在陣して、新方勢を横を撃んとセし処別府の方鬨を発し黒烟夥敷かりけれハ、此方の手はず相違して敵方逆寄セしものならんとむちに鐙を合セて別府にかけつけ、上人の後陣よりもミ立れは八条勢是に力を得て守返し、勢ひに乗て攻立れは新方勢足元定りかたく、殊に少人数の事なれハ殆危かりける処、爰に安国浄恩の両寺往古より栄広山の左右にてありけるか、一山退転の後は自立の体にて有しか殊に住職も代りし故にや今般の催促にも応セさりしか、如何の衆儀にや両山大勢を卒し、か勢として六日の夜大沢辺迄出張しける処、別府の方鬨の声黒烟立て見へけれハ両寺の勢もみも【ママ】んと別府に至り大曾根上野介か後陣より切立たり、
北条氏関東官領の頃ハ渋江寺武総両国一統本山、其時分ハ安国浄恩ハ栄広山左右なりしか天正庚寅已来縁山建立已後、東国の浄家大寺縁山の末寺たるへしと台命、渋江の末山縁山の末寺となるニおよんて末山末寺安国浄恩の類渋江の末寺となり、又脇山の支配に成しともあり、古き山の古記にありとなん、
大曾根軍を切返し勇戦を震ふ折柄、両寺の荒手にかけ立られ裏崩れとなる、上人是に利を得て軍扇をひらめかし大音に呼て味方上鑓に成たり、進めや/\と下知しけれハ、安国浄恩の両師勇ミ立軍扇を開て四方へ乗廻り勝たそ/\と下知しけれハ、八条勢勇ミなりといへとも初度の敗軍に頼切たる勇士数多討れたれハ、終に敗軍し大将八条兵衛尉も馬之足切落され歩行立になり自害センと狂ふ折柄、小作田隼人達に見て飛来り、己か馬に主を乗セて八条の方へ落し遣り其身敵に取巻かれ尋常に討れしかは、敵も味方も是を見て晴なる勇士の〓禽と誉ぬ人こそなかりける、今日はいかなる日そや永正十八年辛巳正月六日の夜丑の半刻より翌七日の朝まて八条衆討死七百五十余人、新方衆三百弐拾四人と聞へし、高賢上人勝鬨を揚父兄の旧領を安堵し功ある者に賞を与へ、敵ながら小作田隼人か忠死を憐ミ其地に墳墓を営ミ、其日討死の亡骸を集めて大念仏を修行し給ひしは難有かりける事ともなり、於爰東新方の地おのつから寺務の領知のことく年貢を宜し、六ヶ村の御堂と称しける事ハ此時の事なりける、去ル永正十八大永と改元有同壬午春大衆武臣一山集会、無量坊豪賢申けるハ先以新方旧領ハ取返すといへとも先生の敵八条兵衛を生ヶ置事心残りたるへし、望らんは大軍を挙て八条を討取先主の忘執を晴さんハいかにと有けれは、一会の人〻聞て此義然るへし勝に乗たる利兵を以八条を討亡し、其地を領したまわん事かたきにあらすと評義す、上人仰けるは今般の評儀其利ありといへとも我軍立ハ旧領を安堵し父祖の恥を雪かんとするのミ、敵を亡し其地を犯し奪わん事然るへからす、又破れをとらは先功の穴とならん事を、【中略】
予素より聞物ハ古ヘヲ師とセされハ長久しかたしと承り伝へ候へと仰けれハ、人ミな感心したりける、其頃東国大に乱れて平井・河越・小田原三方セリ合のことくなれは国法届かす、寺号の御事武家よりたゝす不及、自然六ヶ村を領したまひしとなり、天文年中北条左京太夫氏康主武蔵下総平均之刻寺号の由緒を尋給ふ、高賈大和尚俗姓祖先の退転跡を領しけるよし御答あり、氏康聞て上人の威風且貴族たるを称して其地を領し給ふへき旨御直判を給ふ、其子氏政共子氏直相続黒印あり、
北条関東進上の間副元師の印を号て御直判といふ、当山に元師の直判浄安寺の添状等数通有之、
天正十八庚寅秋九月豊太閤殿下東夷御征伐氏政御自害、氏直上方へ退去之刻殿下武州岩築旅館の日寺号の由緒を尋給ふ、上人先師高賢の先言を以て答へ給ふ、殿下命して釈氏の兵卒を用る事法意に背に似たりといへとも、高賢の事は新方氏族たる上は其理あるへし、後住の如きハ武夫にあらすして一所懸命の地といわん事其謂なし、其地を公辺に奉るべし、然共高賢貴族たる由緒を以其証を残すへしと有て六ヶ村の内にて拾弐石を領すべしと御命あり、
天正十八庚寅秋九月吉日
【中略】
撰者云武州用土主藤田新左衛門平信吉
坂東八平氏
著聞の因記
天文廿三甲寅用土隠者坂東八平氏系譜在所等著述之序著ス者也、新左衛門ハ畠山重忠カ二男小次郎重康十五代藤田右衛門重利カ嫡子、天文廿二辛丑北条ニ属、鉢形ヲ養子新太郎氏邦ニ附属ス、此時用土新左衛門といふ後実子出生[弥八郎/弥六郎]後藤田能登守重信といふハ二男弥六郎か事也、慶長五庚子神君に使へ上杉追討の御供に随へ功あり、房州館山三万石を領す、大坂御陣之刻御所之先陣手天王寺合戦に勇戦を震ひ深手を負元和二辰七月手疵療治のため上京、旅中信州奈良井駅に卒、去年五十六歳重信子無し家断絶弥八郎ハ西国方大家の臣下と奉ると聞へし、
時嘉永四亥年三月清旦、於武州埼玉郡新方六ヶ村大杉郷川上宗甫写之置