四九六 明和四年十一月 浜野藤蔵由緒書

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(市史編さん室蔵)

  明和四亥年十一月

      御台様御用人支配

      万寿姫君御侍   浜野藤蔵

       武州越ヶ谷町御殿地跡拝領仕候、

       由緒之儀申上候、

 権現様天正十八寅年御入国以後、就御鷹野武州新方領増林村ニ仮之御殿建候節ゟ私先祖浜野藤右衛門儀御殿番被 仰付、其以後慶長九辰年右殿越ヶ谷ニ御引移御鷹野被為成候節ニ御泊リ御殿ニ相成節、御殿番之儀伊奈備前守支配ニ相成申候、

 台徳院様 大猷院様 巖有院様御代迄は、御代〻御鷹野并日光御成之節御泊リ御殿ニ相成候、

 右御殿番之儀、先祖浜野藤右衛門ゟ先祖浜野藤右衛門迄三代相勤罷在候之所、明暦三酉年二月右御殿之儀江戸御城二丸江御引成、其以後先祖浜野藤右衛門年久敷御殿相勤候ニ付、右御殿跡被下置旨寛文年中稲葉美濃守殿被仰渡候由、但御殿地跡拝領仕候年月委細之書付先年類焼致候由ニ御座候、

一先祖浜野平吉川船極印改役相勤罷在候節、元禄八亥年酒井河内守殿御検地之砌、右御殿地跡之内ニ有之候雑木御用ニ御伐払ニ相成候由沙汰ニ候、右雑木之儀は御殿地拝領仕候以後先祖共植付置候儀ニ御座候、何卒其儘被下置候様奉願候所、御殿地拝領之由緒等於御勘定所、保木弥右衛門掛リニ而委細吟味之上、小給之者助成ニ可仕旨右之地雑木共前〻通被下置、御役米ニ添被成下候旨、御勘定奉行ヲ【カ】以同年五月六日被仰渡候段、伊奈半十郎被申渡候、右之通御座候、以上

  明和四亥年十一月       浜野藤蔵