五〇二 年不詳 会田出羽家系図

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(静岡会田家蔵)

【前略】

会田中務亟信清

 北条氏より武州領の内江戸下平川 葛西小岩 同飯塚 同奥戸 小石川本所買取る 当時代官職

会田出羽資清

 生国信濃 会田小七郎幸久が伴つて武州越ヶ谷に住いする、往年太田美濃守資政後号を三楽、会田氏と加懇親しき故、資之字を授け是より子孫資之字を用う、天正十七年八月六日卒 喜教院殿長誉利歓居士

会田出羽資久

 天正十八年北条家太閤秀吉之為滅亡、同年八月 東照宮関東御入国之時度〻越ヶ谷辺被為成之刻、資久初奉拝謁其後新方領増林村之内御茶屋御殿有之処、越ヶ谷御鷹野御成之節出羽屋敷林等 遊上覧場所宣候に付地面差上可旨被仰付則奉指上、御殿并御賄屋敷共出羽所持地之内被遊御建 度〻入御之節出羽并妻御目見被仰付奉御懇之上 意其上 御馬験鐘馗之御籏御紋附御団扇、東照宮御筆之鶴之御絵於 御前被下之 台徳院殿度〻被為成、出羽夫婦御目見被仰付奉蒙上意、然処宇都宮御座之節御忍道御案内出羽被仰付御供仕る、其節森川七太夫・会田出羽・久世三四郎一所御用相勤、彼是為御褒美田壱町歩被下置

  伊奈備前守書判印形之一通被相添被下之、元和五己未年十月十六日卒 号歓喜院殿祐誉道光居士

会田七郎右衛門資重

 台徳院殿 大猷院殿 度〻越ヶ谷御成之節、七郎右衛門并妻御目見被仰付奉蒙御懇上意 大猷院殿御筆三番叟之御絵被下之、正保元甲申年七月二十七日卒号深興院殿澄誉道幽居士

会田小左衛門資信

 寛永元甲子年被召出 大猷院様御小姓相勤、同十年御切米三百俵被下置其後二百俵御加増被仰付、都合五百石高被成下、正保二年大御番植村帯刀組御番入被仰付、慶安二年病死八月二十八日、号広大院殿直誉浄頓居士

会田小左衛門資盛

 厳有院様御代 慶安二丑年家督被下置、寛文四辰年大御番米津出羽守組御番入被仰付 常憲院様御代元禄八亥年大坂御弓奉行被仰付、宝永四亥年病死九月五日、号資盛院殿英即日清居士

会田伊右衛門資刑

 巌有院様御代天和三亥年従部屋住 被召出、大御番安藤丹波守組御番入被仰付、常憲院様御代宝永四亥年家督被下置 有章院様御代正徳五未年御代官役被仰付 有徳院様御代享保十七子年御役奉願小普請組福島左兵衛支配入り、元文五申年隠居被仰付、寛保元酉年病死九月八日、号開華院殿定誉秀道居士

会田伊右衛門資敏

 有徳院様御代、元文五申年七月家督被下置、同年十月大御番菅沼織部正組御番入被仰付、寛延二巳年御代官役被仰付

会田又六資忠

 元禄五壬申年十二月十七日卒 号兵遷院光誉安清居士

会田五郎平資勝

 延享三丙寅年三月二十七日卒 号修誉教安禅定門

会田源兵衛資房

 宝暦八戊寅年九月十一日卒、号宗心院安誉樹円居士

 源兵衛弟 継子無之為順養子

会田平兵衛資附

 出羽奉差上候地面御座候 御殿、明暦三酉年江戸大火之節越ヶ谷御殿并御道具共江戸御城江被遊御引取、其後右場所不残作場と相成候、五郎平迄持伝来之処元禄八乙亥年御年貢諸役等相勤、越谷地面之内新田開発之儀、源兵衛・平兵衛一同奉願之処段〻御吟味之上、宝暦九己卯年十一月十四日於一色周防守殿宅願之通被仰付、畑一町十六歩半開発、源兵衛右願之内病死、平兵衛一人願之通被仰付右場所絵図面等委細別相認所持、且亦出羽以来拝領之御小簱御団扇御絵二幅并伊奈備前守殿墨附等至今所持、如前文出羽居屋鋪畑一町歩、慶長十三申年五月十三日拝領之伊奈備前守印形書判相添被下置所持仕来処、元禄八乙亥年酒井河内守殿御検地御改之節五郎平御縄請仕、壱町歩之処三町四反三畝拾歩百姓地成、且五郎平病身故身上不如意と相成右畑質物渡、流地相成居処安永二年癸巳正月十三日由緒有之地面故三町四反三畝拾歩、其外屋鋪添有之雑木林畑四反壱畝弐拾四歩、同九畝弐拾四歩出羽居屋鋪之構内同様ニ取戻所持之、安永八己亥歳五月十六日死去、号松授院誓誉徳本居士

会田平吉資明

 文化十二乙亥歳八月十一日死去、号徳運院善誉浄本居士

会田平兵衛資武

 天保七丙申歳八月二十四日死去、号自照院貫誉一道居士

会田五郎平資美

 嘉永元戊申年七月二十四日死去

会田貢太郎資堯 改五郎平

 明治二十六年四月三日死去 号広明院照誉徳翁居士

                    【後略】