(大沢秦野信次郎家蔵)
孝養仁恵録
爰に武蔵国埼王郡大沢町杢次郎の祖を尋ぬるに、秦野佐次右衛門とて正直律儀にして農間に飲食を貼(ウ)り【ママ】寠(ク)家にして営業なせしか、其中に男子二人あリて長を与市、次を伝右衛門と称す、時得て与市ハ年拾才にして職熟の為め江戸神田元岩井町畳職利兵衛方に奉公なせしか、能く勤めて年限至り二拾三才にして父母の家に帰り稼業出精なしけるに、媒妁ありて同国同郡粕壁宿字川久保組関根助右衛門の次女チセを娶りて妻とし、家内睦しく暮しける、此助右衛門ハ農夫なれとも心正しく利非分明にして智深く、人の困難を救ひしとて聊も誇意(ホコルコヽロ)なく誠に恤(アハレム)の心深し、其子助右衛門「チセの兄なり」父の性質に違わすして仁心ありけれは、父子共に尊敬せられけるとなり、于時天保二庚【辛】卯年与市夫婦に天運降りて男子誕生ありて、名を杢次郎と称して寵愛なしけるか、噫(アヽ)天災なる哉天保六甲【乙】未年大暑の候に至りて立夏の気候に均しけれハ苗秀て実る事能わす、終に饑饉の基となり、翌年乙【丙】申晩春に至りけれは万民の餒患(タイクワン)せし事夥敷、或ハ道路に餓倒し又ハ殍せるもあり、扨も与市ハ従来寠家なりけれハ係る飢患は凌きかたけれとも𥹸䊊(ホツビ)を啜りて稼業出精に筋骨を労し、父母には常の如く麦割飯を食させ養ひしかハ、飢餓の憂其身に及ハされハ父母の怤心(フシン)ハ限りなく凌きけるか、中にハ御上の救米を拝食し飢餒に迫る者も之に命を延ふ、されハ米価追〻の下直に人心揺乱も相止ミ、万民安緒【堵】の思を為すの時至りけれハ父母も共に歓喜なせしか、天命期せしにや、今年十一月に及ひ空く両親共に黄泉の客となりて葬礼を営ミけるとかや、時杢次郎ハ年六才にして父に向ひ問ひけるハ、饑饉の餒を凌くの実又祖父母を如何して養ひし哉と尋ねけるとかや、然れハ杢次郎ハ孝養を尽すの性質、爰に現在なるへしとなり、
子ノ曰ク天ノ命謂フ二之ヲ性ト一従フレ性ニ謂フ二之ヲ道ト一
斯て杢次郎ハ幼稚の時より温純(スナヲ)にして聊も偏心なく、次女を愛して遊ひけるか、光陰矢の如くしてはや九才にも成りけれハ、次女を背負て父母の稼を補ひし事他の童子に優りけるか、時も有りけれハ師を求めて手習素読に遣ハしけるに師に随ふて背かす勉強なしけるか、或る日同町下組なる古本屋にて佐土屋 【ママ】と言る者父与市に向ひて語りけるハ、扨〻貴辺の長男(セガレ)こそ稀なる者なり、少童なれとも我方に来り善行とも成るへく【き】書藉買入なハ是非求め度由、尤も代価壱度に及ひかたけれハ御手数ながら日〻積銭を致し候間御預り下さるへしと約束なし、夫より毎日聊なりとも持参致し置きけるこそ、感するに余ありと語りけれハ、父も心に嬉しく思ひ、其夜職より帰り杢次郎に向ひ聞し由を語りけれハ、杢次郎ハ恭〓(ケイ)として答ひ【へ】けるハ、毎日佐土星方へ積銭を致し置候も他銭を求むるにあらす、母より小遣として銭四文ツゝ与ひ【へ】られけるを度毎積置くなりと申けれハ、父心に憶ひけるハ、我ハ職熟の為め十才の年より奉公し無筆なれハ、不自由ハ常に其身を放れす、去れハ子供には習学も致させ度き心掛けなれとも、寠人なれハ多銭与へて書を求むる資(チカラ)なしと忓心(クシン)面に見(アラ)わし、夫より後ハ銭八文ツゝ与へけれハ尚も杢次郎ハ力を得て倦(ヲコタ)りなく積銭をなし、数巻の書を求めしとなり、
孔子ノ曰ク三人行クトキハ必ス有リ二我カ師一択ンテ二其ノ善キ者ヲ一而従フレ之ニ其ノ不善ナルモノハ而改ムレ之ヲ 扨杢次郎ハ童子も過き生長するに及ひて父に随ひ職業を勉めけるか、父ハ従来質仁に近けれハ聊も人に諂らふ心なく正直にして職に浮沈なけれハ、職の得意自然に殖ひ【え】出精なす事日月の行道に違ふ事なかりせハ、杢次郎も父に随ふて悖(サカ)ふ事なく、寝食を均しくなしけるこそ、是孝の端とならむ、遇(タマタマ)休暇の日有りとも家に在りて書を読事を楽ミとし、又出遊なしけるには其行く処を父母に告て遠く遊はす、朋友に交れとも雑談(カリ)にも詐詭(サキ)を語らすして訫言(マコト)あり、悪を諭して善を誉ること是本性に天の応護なせるなり、時に嘉永元戊申年杢次郎拾八才の目出度春を迎ひ、万民と共に万歳を祝しけるか、元来懶惰(ライダ)の心なけれハ、父母の傍に在りて昼ハ稼職に筋骨を労し、夜ハ綯(ナハナ)ひ余力を待て習字読本を楽ミしか、如何なる友を師とせしにや発道の意迷わされ、戯に事寄せしとハ言なから賭の勝負を犯しけるか、本心を天応護し人頭に神在すとハ現然なるかな、明声にして汝神明加護の本性に悖(モド)り、悪道に陥り嗚(アヽ)不敏なり、迅に迷悪を退け善道に帰すへしと響〓(キヨウレキ)なしけれハ、杢次郎ハ恐愕し斯場を避ケんと心付き、我過てり父母の教育に背き悪事を犯しなはこそ天の誡めならんとて、帰宅なし喟然(イゼン)として憶ひけるは、聖語をも顧りみす悪□に随ふとハ愚なるかなと慙愧に悔ヒ過を改めて善□に随ふ心発しけるとなり、諺に、円月昇るに三度雲に覆われて後照(アキ)らかなりと言り、又人ハ再応迷雲に覆わる事あり、朱に交りて赤くなると言ひけるか、予(カネ)て杢次郎ハ過を改めしにや、丁年に及ひけれとも粧ふ心も出さす、父と均しく職稼怠りなく劷功(ヤウコフ)し、母にも安緒【堵】の思ひを成させしかハ、父母の善悦ハ言もさらなり、其頃近隣の人〻言ける様、扨〻若者には珍敷性質かな誠に篤実にして他の親兄を敬ひ、朋友に信ありて貴賤老若を隔てす交際をなし人の大礼に遇(アフ)ては粉骨細【砕】身して喜憂を同均し事行届きて叮(ネンゴロ)なりけれハ、嘸(サゾ)父母は安寧ならんと嘆美せられしとかや、されハ賢愚の隔てハ浅深計り難し、愚なるを馬鹿とは故実覚束なし、バカとハ百薬の長を過し其身其家を亡滅し、又欲に迷ふて賭を好み身代を失ひ、又迷の雲に暗まされて恋女首(ロクロクビ)に出逢ひ取付れて寐ても寤(サメ)ても眼前(メサキ)にぶらつき、笑われてハ愛敬者とて親より譲請し商業も未熟となり又ハ田地を売無くし、又ハ泣れたとて不敏や抔と〓(ネゴト)を言出し家を破りて仕舞、後ハ狸に陰嚢を覆被(ヲホイカム)せられて往も来もならすして宙宇に迷ひ居るこそ信(マコト)の破家(バカ)者と謂ツベきや、雑話(ハナシ)に大聖孔子の弟子に子路と云人あり、或ル日子跡師の孔子に語りけるハ、我隣家に越し来る人有りけるか家内道具は持ちれとも妻を忘れ残せしとなん、実(マコト)に珍敷違失(ワスレモノ)なりけると語(ハナ)しけれハ、孔子唍爾(カンジ)として曰ふ様、扨〻子路愚かなる事を云ふ者かな、妻は七去とて七ヶ条去る事あり、去ル義有れハ是付し物とせんや、付クとは離るゝの韻(イン)あり、然(サ)れは違失せるとも道理(モツトモ)ならん、別離なき我か一体すら喜・怒・愛・懼・哀・悪・欲の七情に我身を忘るゝ人多からんと覚(サト)されしとかや、又我朝にも弁慶の如き人もあり、又壇の浦兜軍記の浄るりにも景清程の勇士なれともとありけれハ、道二翁も迷も迷ひ迷わぬも迷ひと説れたり、されハ杢次郎程の質なれとも朱に交りて染りけん、廿二才の秋の頃より毎夜入湯の帰り遅くして再応五更をも過し後は暁明(アカツキ)の頃帰りけれハ、父母ハ大に心痛しけれとも、平素稼職は父と共にして勉めかた悪しからす、又夜毎も相応の仕事をなし其余の遊ひと思ひけれハ、強て止めもせさりしか、父心に憶ふ様、日頃何程実体に稼きを勉めしとて、夜の遊ひは善道にハ有ルましく、止めさるこそ親の本意にあらすとて、十二月中旬(ナカバ)なりしか或る夜妻に向ひ言けるハ、毎夜杢次郎の帰り遅かりなん、入湯相済なは早〻帰れよかしと言告(モウシツ)くへしと言けるに、母も疾(トク)より宜しからぬ事なりと思ひけれハ、明ル日母杢次郎に向ひ、いかなれハこそ毎夜入湯の帰り遅クなん、乍去暁明の頃帰るとも火の元を気を付ヶ、又戸鍵を能ク見治め候こそ全く火盗の難を恐るゝなるヘし、然程(サホド)大切に思はゝ以来慎ミて父母に安緒【堵】さすへし言ひけれハ、杢次郎ハ恐愕として言(モウシ)けるハ、最早今月も半を越し今十二三夜なりけれハ其間何卒曲て御免し下るへし、又年も改りけれハ元日より心を改め潔(イサギヨ)く相嗜み、必す懶惰(ヲコ)ケ間敷儀は決して致す間敷と信実に言(モウ)しけれハ、母も心に思ふ様、日頃稼職に出精し僅の間(ヒマ)も費さす、夜の遊ひハ聊なれと過せは後ハ病となる体(タイ)の疲労もありなんと、真心告る後(アト)よりも、夜るの遊ひハ職労の保養ならんと、恩愛の道ハ二ツに別れとも、言ぬ昔そ正りしと思ひ直して言ひけるハ、父母に安緒【堵】なさしむるこそ子たる者の道なるそと言葉少に喩しけれハ、杢次郎も心に通しけん、確せし後ハ口も心も違わすして、過(アヤマチ)を更(アラタ)めしとなり、是迅に心更りしハ賢なりと謂ツヘきや、論語子張篇ニ子貢カ曰ク君子之(ノ)過ハ也如シ二日月之(ノ)食ノ一焉過ツトキハ也人皆見ルレ之ヲ更ルトキハ也人皆仰クレ之ヲと見へたり、
明れハ嘉永六年壬【癸】丑正月となりけれハ、万民泰平の御代なる御恩沢を報せんか為め、家毎に立る門松ハ千春変らぬ緑をなし、福善事ハ七五三(シメ)飾り、真心照す鏡餅、神に備ひ【へ】て祝ひ待ツ、礼者ハ美〻敷粧て目出度春を祝しける、後(アト)より続く万歳ハ人の宝をほめながら、我身に受る貨(タカラ)こそ是万歳楽ならん、悼(タウ)なる男子の遊ひには竹馬・紙飛・コマまわし、孺子(ムスメ)ハ羽根羽護・手鞠歌、老若男女差別なく互に祝ふ春なれや、往来の人の賑ひハ是豊楽の民ならん、扨杢次郎ハ旧臘母に答ひ【へ】し如く、春祝ハ入と共に為と雖とも、他に行て遊ふ事なく又入湯にも行す、家に在りて筆学にのミ心を尽し居りけるは、迷雲晴れて明鏡となるの萠心(ハジメ)斯に生せんか、聊も父母の側を離れすして日夜職業を劭劶(セウコウ)し、必す父母の意に悖らさるこそ孝の始めならん、然れハ父母も安寧して善婦を娶りて子孫長久せんと思ひけるに、幸ひなる哉媒妁ありて同郡越ヶ谷宿字新町桐敷増五郎女ミヨなる者を娶りけるか、此妻心温和(ヲダヤカ)にして父母に事る事夫に均しく姨(コジウト)を愛する事我子の如クなりけれハ、以前に優りて睦敷唍稼(クワンカ)なしけれハ近隣の人〻羨む程にほめしとなり、天津児屋根命の詑(タク)に曰く、我を祈らんよりハ汝か父母に能く事よ、両親ハ則ち内外の神明なるか故なりと祝けり、子曰く天地の性人を貴とす、人の行ひ孝より大なるハなしと謂り、然れは孝心発せは万善之に従フとハ誠なるかな、七難即滅し八苦ハ楽に至るとかや、爰に杢次郎も長男を儲け名を政吉と称して寵愛なしけるか黄門國【ママ】光卿の御言葉にも、子を思ふ程親を思ひ【へ】、又曰く子を持て初メテ親の恩を知ると言われけるを思ひ当りけん、猶も夫婦は父母に孝養を尽す事年月日に進行なしけるとなり、されハ一家ハ和順にして恚(フヅク)ム者もなかりせハ、〓声(ギセイ)ハ言もさらなりけれハ職業は日に増し繁栄なしけるか、杢次郎の心底孝道に止るかな、悪友に交ルとも汚穢(ヲエ)に染らさるこそ慥(タシ)かなれ、古文愛蓮説ニ愛ス乙蓮ハ之出テ二淤泥ヨリ一而不レ染マ濯テ二清漣ニ一而不レ妖ナラ中通リ外直ニシテ不レ蔓アラ不レ枝アラ香リ遠ク益/\清ク亭亭トシテ浄ク植チ可クシテ二遠ク観ツ一而不ルコトヲ甲レ可カラ二褻レ翫フ一とハ、是蓮は君子の徳あるを取りて濂渓先生も作りけるとなり、宜なる哉、然れハ聖賢君子には朱に交りて赤くなるとハ及ハさる語なれとも、是衆人の愛に異なりや、されとも杢次郎ハ職業を大切に勉め孝養倦りなく尽しける事数年なりしか、孝ハ朋友より著るとかや、年四拾才に及ひて孝人に至りて本意顕然なり、尤常に朋友に信を尽せし事今に報ひ来るなるへし、
于時慶応三年歳在丁卯けるか、王政復古の時至レル哉、十一月三日に及ひて明治元年一月一日と改り、徳川家康公天下の政道を行しより十六代徳川慶喜公に及ひて職を辞し、天下の士皆王臣に帰して上地し諸候【ママ】ミな王藩となり居城に在りて其地を支配なしけるか、追〻の勅命(ミコトノリ)に依りて一般居城を廃し、全国に六十二県を置き建築し県守(アガタモリ)を置く事、明治年間の日本吏【史】に詳かなりけれハ之を省(リヤク)す、於是大沢町ハ小菅県河瀬外衛殿の支配となりしか、人民保護として中属藤沢熊次殿大沢町に出張なし、仮支庁を置き是を守るに智仁勇兼備の人なりけれハ、配下の民是の徳に帰する事草に風を加ふるか如し、
中庸に中和を致して天地位し万物を育つと説けり、又孟子曰く、孝天に至れハ風雨時に順ふ、孝地に至れハ万物盛化す、孝人に至れハ福来ると言ひ【へ】り、扨明治三年庚午三月廿七日に至りて御支配御出役様、当町玉屋彦右衛門方江御出頭に相成り、御用有之ニ付親類組合差添江罷出候様御達しに相成候得共、此日恩間村林蔵方江職業にて参り居り候得は早〻忰政吉を以て迎呼(ムカイ)に及ひ候へとも、其内御出役様急用有之帰県に付、此日延引の御沙汰に相成り候、去れハ杢次郎一家ハ御出役様より何等の御用向有之御呼出しに相成り候哉と心配致し居候得しか、同五月廿七日に至りて当町下妻屋弥七方より御支配御出役藤沢熊次様御越しに相成り、過日玉屋彦右衛門方より御用の向相達し置候儀ニ付、早速親類組合差添罷出へくと被仰越候ニ付、親類組合兼伝右衛門相添に下妻屋弥七方へ参り候処、名主喜兵衛・同次郎兵衛・県附伊之助誥合に相成り居候得は、早速差添江【ひ】出役御前江罷出候処、御出役様御尋被仰けるハ、大沢町百姓与市忰杢次郎と申者は其方にて有りけるやと被仰候ニ付、一同無相違趣返答御受仕候処、シテ其方年何才、所有地高何程、家内ハ何人子ハ何人有る哉と御尋に付、年ハ四拾才、高ハ三石余、家内は八人暮し、子ハ三人と、逐一言上しけるに、藤沢熊次殿〓然(レイゼン)として被仰けるハ、扨其方儀平素篤実にして稼業出精し父母に孝養を尽し、人事に信を為し人の面倒能き事此方の聴(キゝ)に及ひ、奇特の儀ニ付一己(イツコ)の心得を以て其方に可(ホウビス)レ賞トテ、金五拾銭紅白の水引を掛ケ被下置、尚も向後前条の儀ハ怠慢(ヲコタリ)なく相勉め呉ヨと被仰渡ける、又宿役人に向ひ被仰けるハ、杢次郎儀ハ奇特の段追日本庁に可相聞も難計候得は、役人共に於ても万事気を付精〻眼を被掛呉よと被仰渡退出にそ相成ける、是全く孝人に至りなはこそ大なる幸福(サイワイ)を得へしなり、されハ四方の人〻も珍敷事なるかなと歎美せしとなり、その中にも御一新とハ言なから依怙の沙汰も有へし抔と謗るもありしか、杢次郎ハ耳に入ルとも心に聞す、只我身を慎みていさゝかも我意に誇らす、且ツは謗りし人なりとも危急(ヨク/\)に迫(コマ)る人あれハ共に心痛して是を救ひ、依怙の心聊もなく万行相勉めけると【な脱カ】り、
旹明治四年辛未九月三日小菅県河瀬外衛殿自身御出役に相成り、当町玉屋彦右衛門方に出張所を置き被仰出けるハ、当町百姓与市忰杢次郎并ニ親与市親類伝右衛門其外越ヶ谷宿大沢町役人一同可罷出旨御達シに相成り候ニ付、早速一同御白洲に罷出候処、其内杢次郎親与市両人ハ近く依りて座に在るへしと被仰けれハ㤉〻(ガヾ)として令公の御前に拝伏す、県令〓然(キヨゼン)として躬(ミヅカラ)被仰けるハ、杢次郎并ニ親与市親類組合兼伝右衛門両宿役人一同今般杢次郎儀篤実柔和ニシテ父母に孝養を尽し候段、県庁江相聞候ニ付、天朝江奏問に及ひけれハ、国に孝子有るは世上の鏡為るへしと之を愛(メ)て、神速(スミヤカ)に賞辞(ホウビ)可有之旨被仰出、依之天朝の御使トシテ態〻出張に及フ、尤装束着用ニテ御賞可相渡本儀ナレトモ略之トテ傍に置キ、御賞辞三宝台に載せ御渡シ被下置、御賞辞令左之通
奉書神ニ認
第二区
大沢町
百姓与市忰
杢次郎
其方儀篤実柔和ニシテ
父母ニ孝養ヲ尽シ候段
奇特之事ニ依之為
御褒美 金三百疋
下賜候事
明治四辛未年
九月
県印
小菅県
奉書紙縦ニ二ツ折ニシテ又横ニ三ツ折ニナス
御賞
第二区
大沢町
百姓与市忰
杢次郎
又県令両宿役人に向ひ、杢次郎事親子共後〻心を付遣スヘし、御受書の儀は本人親類を相除き両宿役人にて可差出旨被仰渡けれハ、則ち連印を以て御受書差上候、役人左之通
大沢町 越ヶ谷宿
名主 喜兵衛 名主 市左衛門
名主代 次郎兵衛 附属 市太郎
年寄 市右衛門 外 役人兼
同 伝吉
附属 伊之助
是ヨリ杢次郎ハ父母に孝養たる事愨盛(カクセイ)なりけれハ、人に尊敬せられけれとも其身は慎ミ深くして万事倦りなく功㲀(コウシン)なしけれハ、同月九日に至りて藤沢熊次殿自身杢次郎方に来り、怡〻(イイ)として語りけるハ先頃県令の御聞に達し天朝江奏問の上御褒美下シ賜リ候由、実に冥加至極成ル事万善にも過るなり、此上ハ尚も相慎ミ叮嚀に孝養を尽さるへし、御賞聊なれとも其方身分に付てハ三ヶ年以前より附属四拾余名に仰渡し、其方行事探索を申付置き其費額ハ金三百円余ニ充れハ容易き事にあらす、又其方行事三ヶ年のミならす永年の行ひ探索方名〻書面に認(シタゝ)メ本県に差出し、四拾余通一度に開封致し候処、何れも其行事書似寄て違わす、行事書上ヶ方左ニ
一家内睦敷事数十年にして恚・怒・〓なる事聊も無之事
一職稼勉メ方甲乙を論せす浮沈の職ヲ為さる事
一父と共に職家に至り候とも食事毎に父箸(ハシ)を取テ後箸を取候事
一父母を大切にして怒色見(トショクアラハ)さざる事
一職業を為すに父の側を隔てさる事
一平常人と交りて信を尽し詐偽(サギ)を話語せす、又人の世話事に付テハ必す不レ惓、剛は解示し弱(ヨワキ)ハ救フレ之ヲ事
一為非常消防壮丁ナル者を相集綱(アツメ)し依頼に拠り其世話方をなし自然人心を和合せし事
一安政二乙卯年十月二日夜亥上刻に及ひ大地震ヲ為シ田畑を損害し人家動破に及ひける際人に助力の事
一同三年丙辰八月廿五日夜巽風ニテ大嵐ヲ成シ人家ヲ吹潰シ田畑作物を損害シ大木を吹折ル際、困難ニ迫リシ者に助力せし事
一同六年己未七月廿三日大暴風雨ニテ利根川・荒川諸流洪水に及ひ候際、元荒川堤防に人力ヲ尽せし事
附タリ廿七日ヨリ押水ニテ田畑作物皆腐し饑饉の患と成り、明レハ万延元庚申三月ニ及ヒ餒困に迫ル人に助力せし事
と有増に語り被仰聞候ニ付、於上テも心配を尽し大金ヲ費用し探索ヲ遂ケ御賞辞令下シ賜リ候事始メて一家の者発明し、且ハ杢次郎の行跡明白なる事を感得し、上の御恩恤(ヲボシメシ)を拝謝し父母の怤(ヨロコヒ)ひ限りなく、剰(アマツサエ)御辞の趣旨杢次郎の諸行に違はす【中略】
按するに庚申三月餒困に迫ル人に助力せしとハ、去ル未年の大押水ハ七月廿三日巽風烈しく雨大に降り、利根川洪水に及ひ忍中条の東竹院と唱る所の堤切所と成り、又水堤を溢りて惣越しと成ル所もあり、埼玉郡ハ一円蒼海の如くとなり、田畑作物ハ皆〻腐し已に飢饉の患と成り、米価ハ追〻の高直に至リけれハ民の憂困頻りなりけるか、之を凌くの業もなく翌申三月ニ及ヒて餒に迫ル人多かりしか終に窮人徒党して示談を成し有富の家に救米を乞請しか、程なく米価下直に至りて人心の動揺も静謐となるとなり、係ル困難の際なれハ在町共に職稼聊もなく、今は父与市も日〻の活計に心痛し、杢次郎と談話に及ひ江戸神田元岩井町畳職利兵衛方に至り職稼なしけるに、此利兵衛ハ旧(モト)与市の主人なれハ叮に致シ呉けれハ、職稼悉く忙しく父子共に夜を日に次て稼をなし此料給を母に贈りけれハ、家内の者ハ困餒にも迫らすして暮しけるとなり、ある日杢次郎ハ父に向ひ乞ヒけるハ、我聊の心掛ケありけれハ夜仕事の料給我分ハ我に与ひ下さるへしと申けるに、父も其意に任しける、されハ是を積置き帰宿の後餒患に迫ル者に施せし由聞及ひけるに、此儀如何なりけるやと問ひけるに、杢次郎ハ心無けに答ひける、其儀ハ我旧より寠家にして人に助力せし抔とハ他を憚りて語ル事能わす、今又故を語らハ人の前貧を揚るに似たり、是を誌さハ冥聞たるへしとて伝ひ【へ】にされハ此儀ハ未祥【詳】
斯て杢次郎ハ廿三才にして孝心に志し、後ち拾八年を経て孝人に至り、拾九年にして天朝に達すとかや、されハ人は万物の霊にして天地の神と同体なれハ、成す所の願として成就せすと言事なし、愨(マコト)に天朝の御賞を賜りし事珍らしき名誉なりと他方の人も聞伝ひ、且ハ感し且ハ難有人なりと歎美せられけれハ、是全く世上の鏡なるへしとなり、昔し文政度に越ヶ谷駅に文太郎と言人ありけるか襁褓(キヨウフ)の内より父に後(ヲク)れ能く母に事(ツカ)ひて暮しけるか、従来寠人にして其身は人に傭(ヤト)われて母を養ひ孝行を尽せし事、御代官伊奈半左衛門御支配所なれハ御聞に入り、御老中江御達しに相成り御召出しの上御褒美被下置、母子共に終身御扶持頂載【戴】せし事現在にして尊き事なりけれハ其徳を敬顕す、扨も一新古政の最中なれハ、置県の都合に依り小菅県を廃し埼玉県の轄と成ル、野村盛秀県令たり、大沢町出張所ハ大松権右衛門宅ヲ仮役所と為し、児玉 【ママ】殿・山崎 【ママ】殿出役たりしか、明治五壬申二月九日俄に県令野村盛秀殿当町玉屋彦右衛門方江出役なし被仰出けるハ、当町百姓与市忰杢次郎親類組合兼伝右衛門宿役人差添可罷出旨御達しに付、同道にて罷出候処、早速御呼出シニ相成り白洲に拝伏す、県令欽然として被仰けるハ、此度小菅県ヨリ書類引渡シニ相成り候処、其方儀予テ記録薄【簿】に書留あり、尚篤実孝養タル事書廻シに相成り候ニ付、其奇特を感賞し不取敢出張致し褒美差遣し候間、受掌有るへしとて、金五拾銭被下置けれハ、難有奉頂載【戴】候趣御受ケ有テ一同退出ニ相成りける、扨県令ハ此御用限りニテ帰県ニ及ひけり、然れハ杢次郎も御褒美頂載【戴】せし事三度に及ひけれハ、其徳広大にして尊敬ささる人こそなかりけれハ、尚も其独ヲ慎みて以前に倍(マ)して謙遜(ケンソン)を為す事専らなり、子ノ曰ク為ルニレ政ヲ以スレ仁ヲ譬ヘハ如シ乙北辰ノ居テ二其ノ所ニ一而衆星ノ共フカ甲レ之ニ、又曰ク道クニレ之ヲ以シレ政ヲ斉ルニレ之ヲ以スレハレ刑ヲ民免ントシテ而無シレ恥チ道クニレ之ヲ以シレ徳ヲ斉ルニレ之ヲ以スレハレ礼ヲ有テレ恥チ且ツ格ル、
然レは政道の正しきハ天下の法(ノリ)たり、爰に御布告被仰出て万民に苗字を免許す、無藉なる者ハ其生家を索(モト)メテ入籍す、穢多番人非人に至ル迄皆平民と免成す、修験僧侶ハ復飾妻娶を被免、神仏を正しく成し敬信愛国神崇の道を開き、而シテ神葬祭仏葬祭ハ適義【宜】タル旨被仰出けれハ、王政の御仁恵尊敬せさる民こそなかりける、旹に御布吾に依り地租改正ト為る、見面毎に間数を調査し畝歩明白に細記し、一村限りニ地位等級を取り、歩毎取穫に依り地価金定メ、字何耕地何号と印【記】シ地図をシタゝメ其県庁に差上しか、少シテ地券書ニ小拾書を相添、地税百分の三と規則を成し御下ケ渡シ相成り、米貢ヲ廃シテ金貢納に布告セシか、取穫見様(ミタメシ)中百分ノ二ヶ半と減シ、歩毎の地券証ニ改メ明治十年ニ及ヒテ授与ニ相成リける、但シ地券書図面ハ所有ニ依り略之、爰に野村盛秀殿県令の職を辞シ、埼玉県権令トナリテ白根多助殿支轄タリシか、明治七年甲戌五月十五日当町照光院学校に白根多助殿御出役に相成り、秦野与市忰杢次郎親類組合兼会田伝右衛門長副区長差添可罷出旨御達しニ相成候ニ付、一同御前ニ罷出〓〻(ルゝ)トシテ拝伏なしけるに、県令感然トシテ杢次郎ニ向ヒ、扨其方儀平常心得宜敷父母に孝養を尽し候段相聞ヒ、是世上孝子の手本又人の鏡とも可成事奇特の至りに存し、態〻出張なし褒美差遣間掌請有へしと被仰けるに一同難有御受ケ仕りけるに、又親類会田伝右衛門外役人一同予テ杢次郎儀ハ後人の亀鑑とも可成事なれハ、精〻心を為添江万事に気を付可二見繾一と仰渡けれハ、一同御受ケ有テ退出にそ及ひける、其御辞令左之通
金五拾銭
第二区
埼玉郡大沢町平民
榛野杢次郎
其方儀平常心得宜敷
両親江孝養ヲ尽シ殊ニ
一家睦敷稼業出精
候由相聞奇特之儀ニ付
為其賞前書之通リ
被下候事
明治七年五月
埼玉県権令白根多助
御賞金ハ半紙ニ包ミ紅白ノ水引ヲ掛ケ被下置
御辞令書ハ奉書紙縦ニ二ッ切ニシテ県令自筆ニ書之
此砌り立会罷在候役人左ニ
第二区〻長 高橋荘右衛門 第一区草加宿居住
同 副区長 細沼範十郎 第二区袋山村居住
同 榎本熊 同 増林村居住
同大沢町戸長 嶋根喜兵衛 同 大沢町居住
同 副戸長 森川治郎兵衛 同 同 同
同照光院学校教師 鈴木 忍行田町 士族
吉田 同 同
今ハ杢次郎も御褒美頂載【ママ】せし事四度に及ヒけれハ、名を万天に揚ケ誉を後世に残し一家の嘉徳恵風と共に薫ルか如し、是後世の亀鑑孝の手本とも謂ツヘくや、今年父ハ六拾九才、母ハ六拾三才、忰杢次郎ハ四拾四才、孫政吉ハ廿一才なり、殊ニ老父母ハ寿想(ナガイキ)にして体健(スクヤカ)なり、行〻(ユク/\)数年にして積孝に及ヒなハ唐土(モロコシ)の大舜にも比すへしと末たのもしくそ思われける、爰に埼玉郡袋山村細沼東条先生ハ誠に孝道ニ心し深く、人の長寿保ちしを聞て怡(ヨロコ)フ事我身に及フか如し、喜愁ハ人と共になし人の困難ヲ拯(シヨウ)スル事ニ財を惜ます、利【理】非分明にして人道に心広く、和歌の道をも能くし仁心他に度(ワタ)りて尊敬せられける、是人として人たるの道至ルと謂哉、此東条先生ハ折節杢次郎の孝を愛(メ)て、父母の安(ヤウス)否ヲ問ヒ長寿の喜祝を松の煙ニ毫(フデ)ヲ染め賀して贈れけるか、実に五常の道備りし徳者なりと謂ツヘきや、
附タリ未タ杢次郎の孝養終ルニ至らされハ、四拾五歳ヨリハ後年ニ及ヒ其諸行を覣〓(エケン)シ二の巻を編誌スヘキ者也 孝養仁恵録 壱 終