私たち人類は、その長い歴史のなかで幾たびかの滅亡の時代を生きぬいてきた。それはあるときは地球という規模において、またあるときは民族という範囲において。
地球規模の滅亡の危機は、この節で述べる自然の動きによってひきおこされ、また自然の力強い営みによって克服された。このことは単に原始・未開の社会だけではなく、その後の人類史の発展過程においても変わりない。民族の滅亡は、人間の歴史的発展の道すがらにおこった必然的な歩みといってよい。しかしこの危機を乗り越えて今日の歴史があるためには、たゆまぬ労働と蓄積された人間の英知がその都度その局面を生き抜く方向へ導いていったのである。
しかし今日再び地球規模で人類は滅亡の危機に向かっているようにみえる。しかも今度は、自然の動きによってひきおこされたことではなく、人間の生みだした文明に対する過信とおごりと、そしてエゴイズムによってもたらされたものである。とりわけ科学技術の未曽有の高度化は、大自然の生態系や地球環境を激しく変えつつある。自然によって育まれた文明が、その母なる自然をあらゆる手段で破壊し、人類の拠って来たる舞台を自らの手で崩壊しようとしている。
私たちの住む日本列島は、気候が温暖で、四季の変化に富み、こきざみにそして規則的に移りゆく自然の中で、豊かな生活と人の心を育んできた。私たちの下松地方も、また、そうした恵まれた自然環境の中で、長い歴史と文化を築きつづけてきたのである。
日本人の歴史の歩みも、日本の文化もこうした自然・風土のなかで生まれ育ってきたものである。とくに西日本地方は、照葉樹林が繁茂し、海や河川はゆたかな幸を、山野はゆたかな稔りをもたらし、美しい日本的景観をみせている。梅雨の雨は、秋の稔りを保証し、冬は積雪も少なく、生活文化が発展していく土壌としては総じて好ましい環境を保っている。
人類が自らの手で、その進んだ文化の所産として地球をとりまく環境を悪化させ、人類の将来への現実的な危惧を与えていることは、世紀末の最大の憂慮である。こうした現実が二十世紀に生きた私たちの行動の産物として批判されることを回避するために、今一度人類の歴史の起点に立ち帰り、自然と人間の深いかかわりに学ばねばならない。
旧石器時代から縄文時代に向かう歴史の流れは、こうした私たちの今日的課題に深くかかわっていることを感じさせてくれる貴重な時代といってよい。