瀬戸内海の海底からは、これまでに多くの古動物(ナウマン象・オオツノ鹿・ニホンムカシ鹿・バイソン)の骨が引き揚げられている。このことからみても、海面の低下によって陸化していたヴュルム氷期のころ、低位段丘上にも人々は多く住み、彼らの遺跡は今なお瀬戸内深く沈んでいることは想像にかたくない。
旧石器時代の人々は、氷河時代の厳しい自然環境のもとで、よりおだやかな気候の地を求め、海岸を求めて、アジア大陸の東の端、日本列島へと移動した。もちろん古動物たちも同じであり、彼らはその獲物を追っての狩人としての旅でもあった。
旧石器時代の終わりに近い約二万二〇〇〇年前ヴュルム氷期が極寒をむかえるころ、太平洋をめざして移住した旧石器人を突然襲った悲劇的事件が起こった。太平洋沿岸は当時活発な火山活動をおこしていた。その中で日本列島の西南端、鹿児島の錦江湾の奥に位置していた姶良(あいら)火山が大爆発をおこしたのである。大きな山が爆発によって瞬時に吹き飛び、多量の火山灰が降下した。火山灰の厚さは、麓の鹿児島・宮崎周辺では一〇〇メートルに及んでいるところがある。白色の軽石を多く含んだこの火山灰の堆積層は、シラス層と呼ばれ、東は扁西風に乗り、遠く宮城県下にまで達している。噴源地から遠ざかるにつれてその堆積は薄くなっているが、中国・四国地方、ちょうど下松周辺においては三〇~四〇センチメートルの層として現在も認められる(図4)。
図4 活動した火山
(新人物往来社『図説発掘が語る日本史』5 1986, 近藤喬一編より)
大爆発は、西日本の植生を壊滅させた。古動物も全滅に近い被害をこうむった。厚く積もって、すっぽりと大地を覆いかくしたシラス火山灰層からは、人々にはイタリアのポンペイの悲劇を想い出す恐しい運命を与えたことは充分に想像できる。瀬戸内周辺では直接的な悲劇が訪れなかったであろうが、少なくとも火山灰でおおわれ、あたりの景観は一変してしまったことだろう。氷河期には雨は降らない。雨水で洗い流されることのない厚い火山灰層はそのまま流れ去ることなく堆積したのである。
その中で瀬戸内の旧石器時代人は懸命に生き続けた。今の瀬戸内海底や瀬戸内周辺の低い小さな段丘上に住み、低地に水を求めて集まる獲物を見張っていた。サヌカイトと呼ばれる火山岩を材料として、この地域独自の瀬戸内技法を駆使して作った石器を使用していた瀬戸内海周辺の人々のゾーンをセトランドとも呼ぶ。セトランドの旧石器人は当時の日本島のなかにあっては、とくに活発な生業活動を展開していたと考えられている。