末武川扇状地の扇頂部、下松市梁にかつて福寺遺跡と呼ばれる遺跡があった。一九七一年(昭和四十六)山口県教育委員会の手で県道の敷設工事に先がけて発掘調査され、上地遺跡と改名された。上地遺跡は下松市域で唯一発見されている縄文人の遺跡である。
笠戸湾にひらける南を除く三方を山丘に囲まれた末武中・末武下の低地は西の末武川と、東の平田川が形成した扇状地である。扇央部の市役所周辺で現在都市化した地盤標高は一二~一三メートル。扇状地形成過程では沖積層の堆積が約二・五メートルあるので、一〇メートルにみたない低い土地である。縄文海進当時はおそらく周防花岡駅のすぐ南側まで瀬戸内海が入り込んでいたと想像される。
花岡八幡宮を戴く丘陵のすぐ西側、末武川が平地に下ったあたりの扇頂部、標高二五~三〇メートルの位置は、南に入りくんだ海を見下ろす海辺の地であった。上地遺跡はそのような位置を占めているのである。
縄文時代が開始して約四〇〇〇年余り経た縄文後期(現在から逆算すると約四〇〇〇年程前)になって上地縄文人の営みが始まったようだ。背後に山地をひかえ、堤面に浅海を臨む立地は、狩猟・採集・漁撈の縄文人にとっては絶好の生活場所であった。
しかし山を流れ下る末武川がちょうど平地におりた傾斜変換点である扇頂部は、量雨による鉄砲水の直撃を受けやすく、また一方海辺の立地は、高波や高潮の影響をも受けやすい。縄文時代人の足跡を残す上地遺跡は、これらの自然の災害によって今日では明瞭に遺跡の全貌を示してくれない。西日本の縄文時代遺跡の一つの特徴は、こうした自然災害を受けやすい海浜や河川の自然堤防上に立地することが多い点である。
山口県下の縄文時代の代表的な遺跡をみても、冠山高原や向津具半島の雨乞山遺跡をむしろ例外として、その八〇パーセントが、海浜や河川堤防上に位置している。
自然環境そのものを収奪している縄文人たちは、通例二〇~三〇人規模の集団を構成し、最大五〇人を越えない範囲の血縁的ムラをつくっていた。一人当たりの食料調達はかなり広い領域に及び、ムラ全体の年間の食料確保には、想像以上に広大な自然環境の保有が必要であった。人口が多くなればなるほど広い地域からの運搬が必要となり、五〇人を越えるとその効率が低下し、結果的に集団が維持不可能となる。
わずかに発見される後期縄文土器を遺す上地遺跡も、せいぜい二〇~三〇人単位の縄文人のムラの遺跡であった可能性が高い。上地遺跡の面積は、後世の遺跡が上下に複合していることも含めて、南北八〇〇メートル、東西一〇〇メートルの広大な遺跡であるとみられている。今後の発掘によって彼らの生活と時代がより詳しく解明される期待もなお多く残されているのである。
かつての瀬戸内海の海底であった地盤の凹凸も、縄文時代の終わりに向かって起こった海退現象によって、離水し陸化したのち、表流水と風化とによって少しずつならされ、上地遺跡の時期より更に海へ向かって生活空間を広げることができるようになった。海退で微高地の間にあった凹地はバック・マーシュ状の湿地としてのこされ、アシ・ヨシの繁茂する景観に変わった。
しかし今から約二五〇〇年程前、最後の狩り人であった縄文晩期人の世界に、これまで何千年間経験したことのない食料確保の新しい手段が登場しはじめたのである。
コメという雑草に似た草が、西から来た人たちによって、葦の繁る湿地に植えられた。温かい気候と豊富な雨は、黄金色の粒を秋になると穂いっぱいに満ちらせ、数年間この有様は規則的に繰り返された。
土器を使って煮て食べると大変うまい。うまい以上に縄文人にとって限りなく魅力的であったのは、秋になると必ず稔りがあるという規則性であった。自然の恩恵の中にどっぷりとつかって、絶えず食料の危機と直面しながら生きつづけてきた数千年間の生活をおもえば、一定の稔りの保証はまさに革命的な現象であった。
最後の狩猟民は、こうして最初の農耕民への歴史的変革をとげようとしていたのである。