図4 水田と環濠集落
(小学館「図説日本文化の歴史1」より)
弥生社会が進むとともに、耕地や水や特産物をめぐる集団間の争いが発生し、各地に優勢な集団と劣勢な集団が生じ、後者は前者に従属していくようになる。"ムラ"から"クニ"への動きは弥生社会の成長する実態そのものを物語り、やがて次の地域政権の統合体の時代の基盤をつくりあげていく時代でもあった。
紀元前三〇〇年ごろにはじまり、紀元三〇〇年ごろまで続いた日本農耕社会の夜明けの時代がすなわち弥生時代であったのである。
弥生文化を日本列島へ伝えた人々と、初期の弥生文化の定着にかかわったと考えられる人々をより具体的に考えることのできる遺跡が山口県内にある。
それは響灘に面した豊浦郡豊北町土井ケ浜海岸に今ものこる土井ケ浜遺跡である。
土井ケ浜遺跡は、本州島の西北端に位置する。一衣帯水に大陸、朝鮮半島と対峙する地である。この遺跡は弥生前期から中期にかけて営なまれた弥生人の集団墓地で、これまでの調査で約三〇〇体にのぼる弥生人の骨が発掘されている。
土井ケ浜弥生人の骨にみられる形質的な特徴は際立っている。すなわち、高身長・高顔であることと、四肢骨がきゃしゃだという点である。
高身長も高顔も、四肢骨の特徴も相対的な表現であるが、その比較するところはもちろん現代人ではなく、縄文人との比較においてである。弥生時代の到来とともに弥生人と呼び名が変わって、縄文時代以来列島に住んでいた縄文人の末裔がいる。縄文人の平均身長は約一五四センチ前後、これに比して土井ケ浜弥生人は、一六二センチの平均身長を有している。縄文人の顔だちは、彼等がつくった土偶という呪具の人形の顔に代表されるように、顔の横幅が広く寸ずまりで、眼が少しつりあがり、眉の上の骨(眉上弓)が発達して盛りあがり、頰骨が張り鼻が大きくて高い。
これに比して土井ケ浜弥生人の顔立ちは、面長で、鼻はむしろそう高くはない。故佐藤栄作氏と故近衛文麿氏とのちょうど中間的容貌だと人類学者はたとえ話をする。
過酷な労働を求められた縄文人の四肢骨は、その断面形が扁平な楕円を呈している。これに対して弥生人は、断面が私たちとよく似て円形に近い。前者は筋肉の附着する面積が大きく、したがって筋肉労働に適した骨格であった。後者は軽作業としての農耕にむしろ適応した骨格であるといえる。
これらの特徴だけをみても、かつての縄文時代人と土井ケ浜弥生人とは、異人種としか考えられないほどの差異がある。狩猟民から農耕民へのわずかな時間の間に人間の骨格、とくに同一民族の骨格がこれほど変化することはない。土井ケ浜の発掘を担当した人類学者金関丈夫博士は、土井ケ浜弥生人こそは、新しい農耕文化を携さえて、日本列島へ渡ってきた渡来人、もしくは渡来系の人の二世ではなかったかと推論した。
土井ケ浜弥生人と同じ特徴をもつ弥生人骨が発見されている地域は北九州を中心として、西は佐賀県の背振山地を越えず吉野ケ里遺跡を西限とし、東は山口県の響灘沿岸をつたい、山陰海岸に沿って、島根県波子浜遺跡・古浦遺跡に至る範囲である。人類学者はこうした分布圏から、彼らを北九州・土井ケ浜型弥生人と呼称している。
この分布域のなかに、山口県の瀬戸内域が含まれていない。この理由は、主として瀬戸内側において弥生人骨の資料がほとんど発見されていないことによる。しかし、土井ケ浜弥生人を渡来人(渡来系人)と考えるならばたとえ瀬戸内に良好な弥生人骨の資料が発見されたとしても、土井ケ浜型ではない可能性が強い。東日本の弥生人や南九州・西北九州の弥生人は、その地域の人骨資料からみて、かなり縄文人的特徴をもっている。あるいは縄文人が新しい血系と混血することなく、自然的な進化をとげつつあるという特徴を有していることが知られている。北九州・土井ケ浜型弥生人はまさに異民族的なのである。
たとえば瀬戸内沿岸、下松市あたりの地で今後弥生人骨が発見されたとしたら、彼らはいかなる特徴を有しているだろうか。
先年、平生町にある五世紀代の前方後円墳神花山(じんがやま)古墳の被葬者の骨の調査が行われた。五世紀であるから、弥生時代につづく古墳時代前半期に属するやや新しい骨の資料である。二五歳前後の女性で、女王の墓として最近話題を集めた。この女性の骨にみる特徴は、土井ケ浜型形質を少しも受けついでなかった。むしろどちらかというと縄文人的特徴の方がつよい。わずかな例からの判断はむつかしいが、古墳時代に至る間に、土井ケ浜的形質は、在来の日本古来人の形質に同化してしまった可能性が高いと考えられている。
瀬戸内弥生人も、先進文化を携さえて来た渡来系弥生人ではなく、この文化を吸収した在来縄文人の末裔であったかもしれない。あるいは渡来人との混血によって誕生した身体的形質も生活形態も新しい弥生人であった可能性ものこされている。少なくとも大陸により近い山口県地方の瀬戸内沿岸地域で、今後弥生人のイメージをより具体的に示す人骨資料が発見されることを大いに期待したい。
土井ケ浜弥生人(左)と縄文的特徴をのこす弥生人(右)