一九七二年(昭和四七)、山陽新幹線敷設工事に先立ち遺跡の一部が山口県教育委員会の手で発掘された。時期の古さと内容の豊富さにおいて、一躍、瀬戸内海沿岸の代表的な弥生遺跡の一つとして注目をあびることとなった。
末武川右岸の宮原遺跡は、末武川から北側に向かって急激に約三〇メートルの傾斜面を登りつめた洪積台地上に位置している。登りつめると、台地上は標高四五~四八メートルの広くひろがる平坦な段丘面となっている。この平坦な段丘面に発見された弥生の遺構には次のようなものがあった(図7)。
宮原遺跡
図7 宮原遺跡遺構分布図
段丘縁辺の二カ所にそれぞれ独立する大きく長円形の環濠があり(第Ⅰ環濠・第Ⅱ環濠)、その内側には密集する土壙(地面を何かの目的で人為的に掘り窪めた大小さまざまな穴)群や、明らかに墓とわかる土壙墓や竪穴住居が発見されている。
図8 環濠出土の前期土器
図9 環濠出土の石器
東側の第Ⅰ環濠は幅が一・五メートルから二・三メートル、深さ四五~九〇センチの断面V字形の大型溝で、その廻る平面プランは卵円形を呈している。発掘したのは、全周の一部約延長一〇五メートル分である。弥生前期末の弥生土器等多数の遺物が含まれていた(図10・11)。
図10 土壙出土の石器
図11 環濠上層の土器
環濠内域には、同じ時期に属する住居の跡はみあたらない。未発掘区域に存在する可能性がある。住居空間ではなく、そこには四四基にのぼる土壙が密集している。土壙の内部からは、多数の土器とともに、磨製石剣や石製皮剝ぎ具などの石器や、炭化したオオムギ・コムギ・コメや籾が発見され、宮原弥生人の日常生活をうかがわせる。土壙のなかには貯蔵穴様のものの他に墓であった可能性のあるものも多い。
平面が長方形の土壙には壺棺と考えられるものもみられ、また人骨がのこっていなくても、明らかに墓への供献品と思われる非実用のミニチュアの壺や石剣などがみられることなどがその理由である。
第Ⅰ環濠で囲繞された広い空間の内側は、一つの単位集落と考えられ、その北側未発掘部分におそらく住居群が、そして発掘された南側には、食料であった農作物の貯蔵用竪穴群や墓域が展開していたのであろう。
第Ⅱ環濠は、発掘された延長七五メートル、幅二・一メートル~四メートル、深さ一・四メートルというかなり大規模な溝である。断面はやはりV字型で、部分的には逆台形をなし、ところどころ底に濠を渡る段がつくられている。両環濠とも水をたたえていた痕はみとめられず素掘りの空濠であった。
第Ⅱ環濠の内側には竪穴住居が発見されている。両者とも弥生前期に、ほぼ同時に隣り合ってつくられている。そして前期を通じてここに機能したが、中期に至る以前に廃絶して人為的に埋められてしまった。第Ⅱ濠の上層には埋土されたあとがあり、また弥生時代後期の多数の土器が捨てられていて、その時期再びムラがこの地に営まれることになったことを示している。
宮原の段丘上に初めて弥生人のムラが出現した。水田耕作を基盤として畑作も行う農耕民に変身した上地縄文人の子孫たちであったとみられる。彼らのムラは縄文時代にはみられなかった大きな環濠に囲まれていた。ムラ人たちが共同で行った集落作りの大土木工事の痕跡である。安定した収穫物を得てその食料を貯蓄するムラでは、他のムラからの強奪や獣害からこれを守るために、防御的なこのような環濠を設けたと推定される。弥生時代の環濠集落という形態は、前期の早い段階から普遍化していたことは、下関市の綾羅木郷遺跡や、福岡市の板付遺跡などですでに明確になっている。以後弥生時代の社会が進むにつれてより定形化して、一貫してこのパターンの集落がつくられ続けることとなる。中期の集落を代表する阿東町徳佐盆地の宮ケ久保遺跡(図12)や、防府市井上山遺跡、後期の玖珂町清水遺跡(図13)や、熊毛町岡山遺跡(図14)、それに次節で述べる下松市尾尻遺跡などはこうした環濠集落の典型的な遺跡としてよく知られている。
図12 宮ケ久保遺跡
図13 清水遺跡
図14 岡山遺跡
集団労働の産物としての農作物-農耕技術、農工具の進歩と品種改良による剰余生産物の貯蓄-集落共有の生産物の管理の強化と外敵への備え-防御的集落構造の産物としての大規模な濠をめぐらす環濠集落形態の発生と存続。これが宮原遺跡の集落跡が示す、基本的な弥生人のムラの姿であったのである。