北山から西に向かって低い尾根が張り出している。この尾根の先端にあたる、大体標高三〇メートル程度の位置には、尾尻遺跡とならんで、御屋敷山遺跡や天王森遺跡などの、弥生時代後期の遺跡が知られている。
これらの遺跡は、好景気がつづいた一九七〇年前半から後半、さらに八〇年代にかけて、国道一八八号線のバイパス建設や採土工事・宅地開発等によって発見され、部分的な発掘調査が行われたのち、その大部分が破壊、消滅されてしまった。とくに尾尻遺跡周辺は、過去長期にわたって採土工事がつづいていて、遺跡の存在に気づいた時点では、すでに中心部は消失していた。わずかに残った尾根の斜面の発掘によって、尾根の頂部にあったであろう弥生人の集落を取り囲んでいた環濠が発見されている。
環濠は、尾根の北斜面にのこっていて、幅二・五メートル、深さ一・五メートルもある大溝であった。濠の断面形は、前期の宮原遺跡の環濠と同様にV字型をなし、広くて深い濠を渡るための橋脚の支柱の痕跡が濠底に認められている。濠中には、多くの弥生土器が投棄され、濠の機能が終わるとともに、最後はごみ捨て場として利用されたようである。
尾尻遺跡の環濠
図15 環濠断面
出土した弥生土器は、次頁の写真にみられるように、壺形土器・甕形土器・高坏形土器、それに特異な形をもつ器台がある。弥生時代のもっとも基本的な土器の組み合わせであるが、注目されるのは、透し孔を連ねて飾った器台である。
尾尻遺跡の出土土器
図16 岡山(左下)・清水(左上)・天王(右)各遺跡出土器台
器台というのは、器(うつわ)を載せる台のことである。前期からつくられてきた壺形土器は、もともと底の部分がしっかりした平底になっていて、ものを入れて使ったり、収納したりするときも、そのまま壺を立てて置くことができた。
後期も後半に入ってくると、とくにこの壺形土器や、煮沸用につかった甕形土器の底は平底が小さく退化をはじめる。底が小さな平底になってくるとものを入れて据え置くとひっくりかえりやすい。底が丸くなるに至ってはなおさらである。そこで底が小さく丸くなるにつれて登場してきた新しい土器が、器台であった。器台の登場は後期後半ごろからの土器の組合せの一つの特徴でもある。
尾尻遺跡出土の土器の底は、平底ではあるが、非常に小さく不安定であることが分かる。したがって器台が必要となり、その器台も用途に合わせて幾種類もつくられている。比較的高さの低い、一見、高坏に似ている形の台も、その脚の部分に円孔が横方向に連続して飾られている。このつくり方は、高坏にも同じようにみとめられる。それとは異なり、円孔が縦に連なって飾られた少し丈の高い器台がみられる。
尾尻遺跡のこの種の器台は、県下ではこれまでまったく知られていなかった。したがって、欠失した上・下の部分がどんな形状をしていたかわからず復原されていない。近年この種の器台が県内の二、三の弥生後期から発見されるようになった。その分布は、下松に近い熊毛町の岡山遺跡第Ⅱ地区、周東町河池遺跡、玖珂町清水遺跡と、一九八〇年代後半になってつぎつぎに発見された。この種の器台の分布が、周防部の一定の地域でつくり使われた地域色のつよい土器であることが分かるとともに、岡山遺跡出土例によって、その全形が明らかになった。
円孔の連続によって飾られた脚部、波状文で飾られた台部、大きく開いた台部は、他の土器が装飾性に乏しいのに比して、きわめて派手である。このような器台は、特殊な場、たとえば祭りの場などで使うためにつくられていて、日常的な器物ではなかった可能性が高い。
とするならば、弥生後期のこの種の器台をもつ遺跡を包括する一定の地域のまとまりは、同一祭祀儀礼を共有していた地域と考えることができ、同時代の単位文化圏の把握だけではなく、次の古墳時代社会のクニ地域の範囲についての理解にとっても一つの重要な考古資料となることとなった。