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倭国争乱期の集落

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 尾尻遺跡の全体構造は、残された部分が少なかったため、詳細には分らない。しかし特異な器台を出土している岡山遺跡や清水遺跡の遺跡構造から推して復原することが可能である。
 先にも述べたように、弥生時代は剰余生産物や水利・開拓をめぐって集落および集落群の間で大小の争いが絶えない社会を現出した。中国の史書『後漢書倭伝』や『魏志倭人伝』などにも、倭国内での争乱の様子を物語る記述がみられる。とくに弥生後期においては、社会構造に階級の分化という基本的な発展がおこり、これを基礎として、集落群の統合の結果、クニが発生していく。倭国争乱のこの時代を地域政権の統合に向かう初期的な動きとして把えることができる。
 尾尻遺跡にみる丘陵上の集落は、生活の利便さを捨てた立地条件と、大規模な環濠に取り囲まれた構造的特徴から、倭国争乱時代の防御的機能をもつ集落として、弥生時代の社会情勢を理解する貴重な資料となる。
 島田川流域の岡山遺跡・追迫遺跡・天王遺跡・石光遺跡、そして清水遺跡などは、その大部分が、環濠をめぐらす丘陵上の遺跡である。しかも環濠が二重、三重にめぐらされ、厳重な防御の状況は、弥生後期から終末期にかけての倭国社会を象徴するとも言えよう。
 しかし、これら周防部に顕著にみられる丘陵上集落には、共通して武器類の遺物の出土が少ないことが指摘できる。しかし瀬戸内海沿岸にこの時期に現れるこうした丘陵性集落のなかには、大型の石鏃(狩猟用から戦闘用と変化したと考えられている)を多量に出土する遺跡がある。
 防御を前面に、また争乱の社会情況を背景としてこれらの集落の出現を理解するならば、こうした武器類が周防においても、もっと見られてよいようにも思える。他地域の集落立地は平地との比高差の高い数百メートルの山上に営まれているものも多いが、周防部のそれは、尾尻にみられるように、平地との比高差が三〇メートル程度である。生活の利便さを捨てたという程度のことではないとも言える。
 それでは環濠は何の目的なのだろうか。
 広く深く規模の大きなこの環濠は、相当数のムラ人たちの、大変な労働力によってつくりだされた産物である。したがってそれほどの大工事を必要とする状況は、緊迫した情勢があってこそ行われたと考えるのも自然であろう。しかしあえていえば、宮原遺跡にみられる弥生前期の集落においても、すでに環濠は出現している。中期の集落においても、搆造的にはひきつがれている。弥生時代に始まった農耕民の集落のもつ基本的な集落構造と解されないことはない。
 周防の丘陵上集落には、キナくさい戦いのにおいはどこにおいても強くないことだけは事実なのである。倭国争乱と丘陵上の環濠集落の問題は、弥生時代後期の弥生人の動きを文献史料と合わせて考える魅力的な課題である。しかし画一的な解釈ではなかなか解明できえぬ多くの問題がのこされている。御屋敷山・天王の森両遺跡の場合も尾尻遺跡と同様である。
 やがて迎えようとする古墳時代に、宮ノ洲古墳をつくった有力な首長が存在し、ヤマトによる統一の動きの中で重要な役割を果たした史実につながる古墳時代前夜の下松地域の人々の動きを、もっと具体的に解きあかせる時がくることに期待したい。