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墳丘墓から古墳へ

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 弥生時代のクニが歴史的発展を遂げ、古墳時代に入ると、その首長たちは、弥生時代以来強くもっていたシャーマニックなクニのリーダー(司祭者的統率者)であるという性格と同時に、政治的統率者としてのイメージをしだいに強くしていった。首長の死にあたって築かれた大きな古墳(前方後円墳)は、この統率者の死をいたみ、その力の大きさを示すごとく、丁重に葬った奥津城(墓)であり、あわせてクニの民の前でこれからの彼の後継とするべきリーダーを承認するための、共同体全体の大事な儀式の場としての意味を強くもっていたのである。
 定型化した前方後円墳の登場によって、古墳時代の幕が開けられたと考えられている。
 中国では、三国時代を制した魏が、臣将司馬懿仲達の孫司馬炎によって国を奪われ、司馬炎は、泰始元年(二六五)西晋を建国する。倭国では卑弥呼の宗女台与が、武帝(司馬炎)の即位の儀にあたり使者を送っている。
 即位の儀は、円丘と方丘を築き天を祭る郊祠の儀礼として執り行われた。このような皇帝権の継承儀礼として天地を祭る儀式の場が、まさに円丘と方丘をもってなされていることは、日本の前方後円墳の成立と深くつながりをもつと考える学者も多い。
 『魏志倭人伝』には、卑弥呼がなくなって大きな墓を作ったと記されている。定型化する前方後円墳の出現以前には、甕棺や箱式石棺や土壙墓(木棺墓)などの弥生時代特有の小規模で群集する墓に代わって、墳丘を盛り上げた、より形態的に古墳に近い独立した墳丘墓と呼ばれる墓が作られ始めている。この弥生墳丘墓に、中国の即位儀礼の観念を与えたものとして登場したのが、前方後円墳とみられるのである。
 図1は、弥生時代から古墳時代に移行する時代の変革期に、各地で前方後円墳の前段階の首長墓として近年注目されている墳丘墓の分布を統計的に示したものである。プレ古墳ともいうべき、弥生時代終末期から古墳時代初めにかけての首長墓は、図に示されているとおり、西は南九州から東は東北地方の南に及んでいる。その総数は四一六カ所に達する。

図1 古墳出現直前の墳丘墓の分布

 地域単位にみると、いわゆる畿内に属する地域(ここでは意識的に播磨をはずして丹波・紀伊を含めた)に一〇〇カ所の墓が集中している。中国地域(播磨を含める)は山陰・山陽地方を合わせて一二九カ所。そのうち山陽側に九三カ所。九州には七三カ所あって、うち北九州地域に六一カ所が集中する。これは大きな特徴である。四国の三七カ所(うち瀬戸内沿岸に二四)を含めると、総数に対する八一・五パーセントが畿内を含めた西日本に集中しているのがよく分かる。そして西日本では、畿内から山陽、北四国を通って北九州に至るいわゆる瀬戸内を仲立ちするメインルートの地域に、その八二パーセントが集中している。すなわち、この時代の倭人世界の中心がこの地域にあったことをよく示している。これらは弥生時代を通して、しだいに部族社会のなかで、有力首長層に成長してきた者たちの墓なのである。
 『後漢書倭伝』にいう百余国の段階と、『魏志倭人伝』の三十国の段階とにこの墳丘墓を整理しているわけではないので、その分布が古墳時代前夜の地域首長の様相をそのまま反映しているとはいいがたい。しかしこの中から時代の推移とともに歴史的に淘汰された者たちが、古墳時代の在地豪族として古代国家の担い手となっていくことになる。