三世紀もあとわずかにならんとするころ、瀬戸内海が東に尽きる辺りで、後の天皇家を中核としてクニの中心をなす大和・河内・摂津・山城地域に成熟した畿内勢力(ヤマト勢力)は、日本列島の歴史にとって初めてのヤマト王権の形成に向かって列島内を統一する動きを起こし始めた。のちヤマト朝廷と呼ばれるようになる畿内のこの勢力は、弥生時代の初期から新しい農耕文化を受け入れ、二~三百年の間に大和盆地や大阪平野において大きく醸成し、古代日本における最強の力を誇る勢力にまで成長していたのである。その中核にあったのが邪馬台国だったのかもしれない。
ヤマト政権による統一は、弥生時代を通じておよそ四〇〇年の歳月を要して、徐々に醸成されてきた歴史のうねりであった。統一するために平定する、あるいは連合するヤマトの国土の主要な地は西日本であった。ヤマト政権による支配を果たすためには、この西日本の地がもっとも重要な地域である。農耕文化が定着し、これを生産の基本とする生活が始まった弥生時代以降、九州から畿内に至る地域はつねに日本列島の中の政治・文化の先進地域となった。
この時代の終わりのころには、『魏志倭人伝』にも記されているように、いたるところに割拠する在地の大きな勢力が多くの「クニ」を形成していた。なかでも西の北九州諸国と東のヤマトは双璧であり、この二つの勢力に挟まれた中間の地域、出雲・吉備・播磨などの勢力もその最たるものであった。今日になおこの中間地域を指して中(間の)国(々)、中国地方を呼ぶのも、この時代にさかのぼる歴史的背景に由来すると考えると理解しやすい。
ヤマト政権による統一は、言い換えれば、当時の最強の勢力であるヤマトの、西日本の諸勢力平定という動きであった。とりもなおさず西日本という地域を抑えることは、中国大陸や朝鮮半島の新しい先進文化を摂取できるルートをつねに確保しておくことにつながる。ヤマト政権の統一への最大の手段として考えられたことは、まず東西を結ぶ幹線ルートとしての瀬戸内海をみずからの勢力圏に収めることであった。
しかしこの瀬戸内海には、予測できない力をもった多くのクニグニが、まるで鼻先の島影を包み消してしまうあの濃い霧のように待ち構えていて、これらを力によって従属させていくことは一朝一夕にして成らない困難なことであった。
当時の日本「倭」においては、国家統一ということはもとより、「国家」という概念が、どの程度当時の人々の中で周知されていたかは計りがたい。各地に割拠するクニグニの首長たちにとっては、汎列島単位の大きな体制の中の一つの組織として組み込まれていくことであり、場合によっては従来自らが拠って立ってきた首長の基盤を失うことになる動きとも思えた。しかしまた逆に考えれば、大きな力を背景にその基盤をより強固なものとして保証させる一つの機会でもある。ヤマトの勢力はそれなりに、西日本各地の地方勢力はまた、戸惑いのうちに、この「倭」の新しい時代への胎動に歴史的対応を迫られていたのである。