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瀬戸内の豪族たち

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 一衣帯水の間に大陸・朝鮮半島と対峙し、紀元前三世紀ごろより新しい農耕文化を受容しつづけてきた列島の玄関は北九州であった。古代日本の文化は、ここよりつねに東漸し、瀬戸内海沿岸を、また日本海沿岸を通って伝播し、瞬く間に列島内に行き渡った。弥生文化が北九州から畿内に伝わるのに要した年月は、約四、五十年であった。
 古墳時代に入って、筑紫の那の津を船出して関門を抜け、瀬戸内を東に難波の津にいたるには、約一月の水行であった。つねに瀬戸内海は文化と人の往来する大幹線道として、大きく日本文化の形成に関わってきた。ヤマト朝廷が統一の動きの中で、まずこの瀬戸内海のルートに障害を払拭し風通しをよくしようとしたのは当然である。瀬戸内の各地に割拠する在地の豪族たちを、ヤマトの統一の傘下に組み込むことができれば、もはや目的の大半が達せられたといってもよかった。
 倭のこの新しい時代の胎動に、歴史的な対応を迫られていた瀬戸内の豪族たちについては、彼らの支配する地に残っている初期の古墳の分布によって明らかである(図2)。まずこの初期の古墳の分布を図から眺めてみよう。図2は、畿内から瀬戸内を西に関門に至る間に、古墳時代の前期に属する古墳の分布とともに、古墳に葬られた首長の背後勢力を示している。これらの古墳は、四世紀~五世紀のものが中心となっている。かならずしも前方後円墳というわけではないが、その大半は前方後円墳で、古墳時代の前半期を代表する首長の拠点や橋頭堡である。

図2 瀬戸内沿岸の拠点と背後勢力
(角川書店「古代の日本」4より)

 瀬戸内沿岸の首長墓の分布は、安芸の多島海を除くと、ほぼ等間隔に広がっている。この古墳の分布を見ると、前期古墳をたどるルートが、古代の瀬戸内航路のルートと重なっていることが推測できる。摂津を出て西に向かうと、播磨の海に入り、淡路島の北の海峡を抜ける。この海峡を見下ろす海に突き出た尾根の先端に大前方後円墳五色塚古墳が築かれている。主体部の発掘調査は行われていないが、全長一九七メートル、陪塚二基を従え、葺石と三段に墳丘をめぐる埴輪列をもつ堂々たる四世紀の古墳である。
 ここを過ぎると播磨権現山五一号墳を後に、一つは小豆島を北に回り備前牛窓へ向かう山陽沿岸ルート、もう一つは小豆島の南を迂回して、讃岐津田湾へ向かう四国北岸ルートの二路に分かれる。二つのルートは、安芸の国を過ぎて周防大島の辺りで一つになり、熊毛半島に到達する。合流するこの熊毛半島には、その付け根の地柳井に四世紀の前方後円墳茶臼山古墳があり、五世紀の西部瀬戸内最大の古墳白鳥古墳にいたる四基の前方後円墳が存在することはよく知られている。そこからは一路周防・長門の海岸線に沿って関門をとおり玄界灘に抜けることになるが、熊毛半島を過ぎてまず初めに至る前期古墳が、下松市の宮ノ洲古墳であることに注目したい。ここでは図2を参照しながら、瀬戸内に分布する前期古墳の在り方に注目しておきたい。
 瀬戸内の古墳群について、もう一つの分布図を示すことにする。図3は前期古墳の中で、三角縁神獣鏡を副葬していた古墳の分布である。

図3 西日本の三角縁神獣鏡副葬の古墳分布
(東京大学出版会「三角縁神獣鏡」1988, 近藤喬一より)