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三角縁神獣鏡の分布

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 古墳、とりわけ前期古墳の副葬品には、首長の政治的、司祭者的権力を示す宝器として、前代から受け継いできた鏡、みずからの手で作った剣と刀、それに宝玉が備わっているのが一般的である。弥生時代の祭器であった銅剣や銅鐸は、ムラやクニの集団祭儀の祭器として使われ、集団祭儀を司った首長の墓の副葬品として副葬されたが、古墳時代になると首長個人の権威の象徴として、この三種の宝器が副葬された。なかでも、三角縁神獣鏡は、ヤマト政権の統一支配に大きな役割を果たしたと考えられている歴史的意味においてきわめて特異な副葬品である。弥生時代の墓に副葬された鏡に比べて、その径は大きく、周縁の部分の断面形が三角をしていて、鏡背の主文様には、神像と想像上の獣像を交互に配する。数は少ないが鏡文の中には銘文をもつものがあり、また鋳上がりの良さから、この鏡は日本で作られた鏡ではなく、中国製(舶載鏡)であろうと考えられている。
 『魏志倭人伝』には二三九年(景初三)倭王卑弥呼が魏の皇帝に使者を送り、帰国にさいして銅鏡一〇〇枚を下賜されたという記述がある。漢代の鏡のなかにみられない様式をもち、かつ景初三年(二三九)・正始元年(二四〇)の銘がみられる鏡を含むこの三角縁神獣鏡こそが、先述の下賜鏡であるという説は今日の日本古代史の研究の中で大変重要な考え方となっている。
 邪馬台国を継承したヤマト政権は、各地域政権の統一に当たって、首長の権力の証としての銅鏡を、服属する各地の在地豪族に分け与えた。この三角縁神獣鏡の分有理論は、魏と倭国と、大和勢力と地方勢力との、三~四世紀の歴史的動きと考古資料より明快に説明する理論として有名である。
 このことを前提とするならば、地方豪族の古墳、とくに前半期の古墳に副葬されている三角縁神獣鏡の分布と、その古墳の年代との関係こそが、ヤマト政権による統一の行程を如実に示すものとなる。
 ふたたび図3にもどる。
 図に表わされた分布状況は、瀬戸内沿岸、山陰の出雲周辺、北九州とその周辺、丹後地方に集中している。地域別にみた三角縁神獣鏡副葬古墳の数は以下のとおりである。
 丹後地方-8(うち仿製鏡2)、出雲とその周辺-10(同2)、瀬戸内山陽側-28(同6)、瀬戸内四国側-9(同3)、九州地域-22(同5)。
 図中の白ぬきの古墳標示は、舶載の三角縁神獣鏡をモデルに、舶載鏡の絶対数不足を補なうため日本で製作された仿製鏡(倭鏡とも呼ぶ)を副葬する古墳である。
 ヤマト政権の統一過程で、まず中国(魏)から下賜された中国製の三角縁神獣鏡がヤマト政権と服属関係を結んだ各地の豪族に配布された。