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宮ノ洲古墳の発掘

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 防長の在地豪族のなかで、この舶載鏡の配布を受けたヤマト勢力と近密な関係を結んだのは図3にみられるとおり、都濃地方に君臨し瀬戸内の拠点をおさえていたと考えられる宮ノ洲古墳(下松市東豊井宮ノ洲)の被葬者と、同じく都濃地方の豪族であった竹島御家老屋敷古墳(新南陽市竹島)の被葬者であったことが分かる。
 いずれも瀬戸内沿岸の県東部(のちの周防国域)の豪族であり、ヤマト勢力がまず最初に同盟関係を結ぶことを考えた地方豪族の中に選択されたわけである。
 ヤマト政権による第一次統一の波の中で、舶載鏡を配布し終えると、再度力をもつ地方勢力の統合に、仿製の三角縁神獣鏡をもってあたることとなる。これを仮に第二波の動きとするならば、この時点で県西部瀬戸内の松崎古墳(宇部市松崎)および長光寺山古墳(厚狭郡山陽町西下津)の被葬者が加わることになると理解できる。
 この四世紀初めの四カ所の古墳に共通する特徴は、すべてが瀬戸内海沿岸にあることである。この立地については先般来述べてきたとおりである。
 竹島古墳と長光寺山古墳は墳形が前方後円形を呈する。宮ノ洲古墳は墳丘が消失し、判然としないところが多いが、おそらくは円墳であったとみられ、松崎古墳も同様である。
 畿内の(ヤマト勢力の)前期古墳の墳形のオリジナリティは前方後円墳である。そして被葬者を葬る内部主体の構造は、竪穴式石室に割竹形木棺を納めるところに特徴がある。防長四カ所の古墳の主体部は、松崎古墳の大型箱式石棺を除いていずれも竪穴式石室であったことが知られている。
 これまで発見されている三角縁神獣鏡をよく観察すると、すべてが同じ文様ではない(図4)。舶載鏡では、同じ鋳型(笵(はん))でつくられた鏡(同笵鏡(どうはんきょう))の種類は、現在発見されているもので、七六種、二三二面にのぼる。内訳は九州二八、四国六、中国二五、近畿西部二〇、畿内(京都・大阪・奈良)八六、近畿東部一四、中部二九、関東一〇、出土地不明一五である。仿製の同笵鏡は二〇種、六七面。内訳は九州一六、四国〇、中国八、近畿西部二、畿内二七、近畿東部三、中部五、関東一、東北一、出土地不明四となる。両者ともに畿内が抜きん出て多く約半数を占め、仿製鏡に一段と顕著であるが、西日本への重点的配布に際立った特徴をもつことが分かる。
 下松市宮ノ洲古墳の副葬鏡は、舶載三角縁神獣鏡の中で、「天・王・日・月・獣文帯二神二獣鏡」と分類される型式の鏡である。図4では、48。同笵鏡は宮ノ洲古墳を含めて三面あり、三重県桑名古墳と福岡県沖ノ島一八号祭祀遺跡に発見されている。

図4 中国製三角縁神獣鏡の同笵鏡分有関係図
(東京大学出版会「三角縁神獣鏡」一九八八、近藤喬一より)


宮ノ洲古墳出土の三角縁神獣鏡(東京国立博物館所蔵)


宮ノ洲古墳

 宮ノ洲古墳は、下松湾に突出した砂洲の基部に位置する円墳である。この古墳の発見は古く、江戸時代の一八〇二年(享和二)八月二日と記録されている。磯部際右衛門の「宮ノ洲開発地石室覚」(徳山毛利家文書)につぎのように記す。
一、享和元年辛酉三月十八日、宮洲御山之内、畠地開発付度之段、幸吉ゟ御願申上候、
一、同二年壬戌二月廿日、去春御願申上候宮洲御山之内、畠地開発之儀、追々申出之趣ニ付、願之通被仰付候旨、御沙汰被仰付候、
一、同八月廿一日畠地追々開立仕候処、凸之土地御座候故、地平シ仕掛ケ候処、石垣掘出シ申候其内ニ鏡刀類御座候ニ付、其段幸吉ゟ御届申上候、
一、同廿四日左之通、御沙汰御座候、
   此間被届出候古墓躰之場処、追而御差図可有之候条、其場所江差支不申様気を付可被申候、為此申達候、以上、
 八月廿四日
                  山部八尾助
 宮洲屋
   幸吉殿

 宮洲屋幸吉が土地開墾中に古墳を削平し、石室を掘り、そのなかから鏡三面と鉄刀等、鉄器類を発見し、その後弐軒屋新助が鏡一面を拾って届け出、貴人の廟と考えて小祠を建ててまつったと伝えられる。すなわち、
   御願申上候覚
此間御届申上候通、宮洲御山開発地之内ゟ石垣掘出申候処、貴人之御廟所ニ而茂可有御座哉ゟ奉存候と、近辺之社家江相頼一応祭事仕追而ハ小社を建、大廻りに茂境立之印ニ玉垣相調、以来ハ年中壹度宛輕キ祭事仕度奉存候、御免被仰付被遣候様、奉願上候、此段宜敷御執成被仰上可被下候、奉頼上候、以上、
 壬戌
  八月晦日          宮洲屋
                  幸吉
   山邊八尾助殿
一、同九月四日左之通、御沙汰被仰付候、
                宮洲屋
                  幸吉
 願面一応之祭事勝手次第取計可申候、掘出し候石室中之諸品鏡刀類、初追而御指図有之迄、遺失無之様開発主宮洲屋ゟ締取計之儀達相成居候処、此度祭事修行候付而哉鏡刀類八箱入なして石室中ニ差置締仕候歟、又ハ祭事相頼候社人之宅ニ当分相預置候歟之様取計可申候、左様而願面追而小社建調已下之儀ハ此後御沙汰可相成候事、
 附願面小社玉垣建調祭事取計等之心得相志らへ候而書出し可申候、此度申出之祭事之儀ハ御領内社人江相頼可然、尤名前可申出候事、
 壬戌
  九月四日
一、同七日黒神上総申請一応之祭事仕候、今日埴常社と神号附キ申候、
一、同十五日左之通幸吉ゟ覚書指出申候、
     覚
  一、小祠
    但石ニ而相調西向ニ仕度奉存候、壹石ゟ惣高六尺弐寸五分、前壱尺五寸、入壱尺五寸、
    右小祠石室之前建調仕石室ハ締仕其儘指置申度奉存候、
  一、玉垣
    但竹ニ而相調申度奉存候、高五尺、横五間、入六間
  一、年中壱度宛祭事之儀ハ
    御領内社家壱人相頼八月廿三日ニ而茂祭事相調申度奉存候、
  右之通、仕度奉存候間、宜様被仰上可被下候、奉願上候、以上、
                 宮洲屋
   九月十五日          幸吉
    山邊八尾助様

とある。
 鏡は実は後に発見された一面を合わせて四面分あり、(1)王氏作盤龍鏡 (2)獣帯四神四獣鏡 (3)半円方格神獣鏡 (4)内行花文鏡となる。
 (1)の王氏作盤龍鏡には銘帯があり、
  王氏作竟四夷服  多賀国家人民息  胡虜殄滅天下復  風雨時節五穀熟  長保二親天力
 と記されている。
 古墳は江戸期にいったん埋め戻された。一九五二年(昭和二七)春、日本石油精製株式会社下松製油所の工場拡張計画に先立って半壊していた古墳の事前調査が行われた。調査を担当したのは、当時の小野田高等学校長の小川五郎氏である。
 小川氏の調査報告によれば、調査実施は、同年三月十七、十八日の両日。一八〇二年八月の発掘後、発見された遺物は新たに石櫃に納めて改葬し、埴常社として祭礼したが、一八九〇年代に再び石櫃内から鏡鑑を取りだし、その後散逸したとある。調査当時は、すでに封土ほとんどはなく、小口積みの竪穴式石室の一隅だけがのこっているにすぎなかった。ただわずかにのこっていた封土と、竪穴式石室の基礎部から推察して復元を試みると、墳丘の高さは約三・二四メートル。竪穴式石室は高さ一・四メートル、幅一・四五メートルになると報じている。石室の床には礫が敷かれ、礫にはなお鮮やかに朱色を見ることができたとある。
 改葬された石櫃内の遺物には、鉄刀三本、鉄斧一本、鉄鏃二本、鏡の破片若干がのこされていた。『宮洲開発地石室覚』にある「石垣掘出し申候、其内に鏡、刀類御座候」とあるのに符合する。
 小野忠〓氏の報ずるところでは、一九五二年の調査のさい、石室の床面より、鉇一本と古式土師器の壺の破片を採集し、下松市図書館に保管されたとあるが、現在その所在が不明で、きわめて残念である。