舶載の三角縁神獣鏡を副葬していたもう一つの古墳、新南陽市竹島古墳について少し紹介しよう。
竹島古墳は、徳山湾内に浮かぶ竹島の島頂に築かれた前方後円墳で、今日もその雄姿をとどめている。全長約五六メートル。後円部径約三八メートル、高さ約六メートル、前方部最大幅約二八メートルで、主体部は、後円部のほぼ中央下に設けられた竪穴式石室である。
一八八八年(明治二一)、島の人たちの手で発掘されたさい、石室内から、銅鏃二六本、鉄鏃一本、鉄斧一個、鉄剣三口、素環頭大刀一口とともに銅鏡三面(小鏡片が一つあり、計四面の可能性あり)が発見され、一括して一九八八年(昭和六十三)国の重要文化財に指定された。
鏡は三面とも舶載鏡で、うち二面は三角縁神獣鏡、他の一面は「劉氏作画像鏡」で、いずれも中国三国時代の鏡とされている。三角縁神獣鏡二面のうち、一面は紀年銘鏡として有名である。すなわち、「正始元年陳是作重列式神獣鏡」と呼ばれるものである(図4⑤)。正始元年は二四〇年。先述したように、卑弥呼が魏の明帝に使者を送った二三九年の翌年にあたり、少帝の初年号である。先年京都府福知山市の広峯一五号墳から発見されて話題となった「景初四年」銘三角縁神獣鏡の「景初四年」と同年にあたる。
中国正史には、景初四年という年号はない。正始元年と改元されている年であるにもかかわらず、正史にない年号を鋳出している広峯出土鏡の例こそは、三角縁神獣鏡そのものが、中国鏡であるはずがなく、中国の工人が来日して日本で作った鏡であるとのいわゆる倭鏡説を鼓舞したことで一躍有名になった。その学問的真偽の程はここでは述べないが、いずれにしても、卑弥呼-ヤマト勢力-下賜鏡の配布-地方首長の統属とその連合、同盟の成立と深くかかわっていることだけは確かである。
もう一面の三角縁神獣鏡は、「天王日月、獣文帯四神四獣鏡」と呼ばれる鏡で、図4㉕に表わされている。
「劉氏作画像鏡」は同じ三国時代でも、呉の国の鏡であると考えられている。『魏志倭人伝』の世界の印象が強いが、当時の倭は、魏のみならず呉の国とも交渉をもっていたことをよく示している。
弥生時代以来、中国あるいは朝鮮半島から祭器として渡来した銅鏡は、ポスト銅剣・銅鉾・銅鐸祭器として、古墳時代に近づくにつれて意味を深くし、やがて政策的祭器として古墳時代首長の最大の象徴となっていく。