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ヤマト政権と地域社会

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 卑弥呼は、あるいは新しい時代、国家誕生の時代を予測し、ヤマト政権による統一の動きを興すにあたって、不可欠な品として意図的に中国へ銅鏡をもらう使者を遣わした可能性が高かったとも考えられる。下賜された品々の中にたまたま銅鏡があったのではなく、銅鏡一〇〇枚という膨大な数とともに想像するならば、二三九年の邪馬台国の使者は多分に、銅鏡を求める旅に出発した遣魏使であったと考えられるのである。
 下松市の宮ノ洲古墳および新南陽市の竹島古墳の両被葬者は、ともに三角縁神獣鏡を所持していた。これは、ヤマト勢力から政治的連合・同盟を結んだ証として配布された政治的意味をもつものであった。しかも両者の鏡が、舶載鏡であり、卑弥呼の使者が魏に赴いたその年の年号が鋳出されてもいる。ヤマト勢力が西日本を重点的に、しかも瀬戸内在地勢力を把握していく最も初めの動きの中で、この両古墳の位置している周防、都怒地域の豪族との連合・同盟を第一に考えたことが読みとれるのである。
 宮ノ洲古墳の被葬者が、いかにしてヤマト勢力が無視することができない程当時在地勢力を保持していたのだろうか。
 この点がじつは直接的に理解しがたい点である。このことは竹島古墳に代表される都怒の勢力にも、さらには、仿製三角縁神獣鏡を所持していた長光寺山古墳・松崎古墳の勢力にも共通している謎である。
 直接的にと述べたのは、次の意味である。たとえば同じ瀬戸内でも、吉備を中心とする地域には、広大な農耕基盤としての生産地が背後に存在している。
 先の図2に示したように、山口県を除く瀬戸内海沿岸に分布する主要古墳には、それぞれにその背後に一定の勢力圏を蓄積していた。山口県下のみ背後勢力の標示がみられない。
 また吉備や出雲地域では、古墳時代に先立つ弥生時代後期から終末期にかけての墳丘墓がすでに発生していて、新しい時代への胎動が確実に認められる。このことは、さらに前述の図1と重ねてみるとよく理解できる。
 山口県下の瀬戸内海沿岸は、中国山地が海岸線に近接し、現在の景観は海を埋めたてて海岸部に平地がみとめられるが、それにしても耕地面積は貧弱である。わずかに防府平野が優っているが、ここには前期古墳は存在せず、三、四世紀において注目される勢力はない。弥生時代以降、農耕を基盤とする経済・社会が成熟、展開し、ヤマト政権の統一に至った歴史的過程を思うとき、その生産基盤のぜい弱さは否めない。
 弥生時代の遺跡については、第二章で述べたとおりであるが、しいて言及すれば、島田川流域の弥生社会、あるいは下松市域の宮原遺跡、上地・尾尻遺跡の弥生社会をつくり出していた集団が、少し力を有して地域的首長の登場を醸成していたのかもしれない。もともと、他の地域の首長、とくに吉備や出雲や、北部九州の首長ほどに大きな力を有していたわけではなかった可能性が強い。
 ヤマト政権の初期の展開の中で、宮ノ洲古墳や竹島古墳の首長が注目されたのは、ひとえに瀬戸内航路の拠点的橋頭堡に位置していたという、地の利をもってしての結果であったと考えられる。それほどに瀬戸内のルートの確保は、ヤマト政権の統一とその後の展開に大きな意味をもつものであつた。