山間の谷あいから内海に向かって流出するのが、東から切戸川・平田川・末武川である。切戸川(きりと・きれとといい、久保川・下松川とも呼ぶ)は、切山・山田・来巻から水をあつめ、河内の小野川・吉原川と合流して、笠戸湾に注ぐ。ただ原始時代の流路が現状通りであったかどうか、いちど現地にあたって、河道の変遷をたどってみると、久保地区を抜けて下松平野に出た地点、河内の小字大河内其ノ一、高根、向八口、八口其ノ一の付近で、いかにも不自然に、ほぼ直角に屈折したコースで流れるのが分かる。和光保育園や西念寺の北側の一角に当たり、北方の城山側に向かって、大きく湾曲している。大河内橋から川下の殿ケ浴橋の間は、もともと旗岡山寄りに緩やかに曲がりながら流れたように観察できる。流路を人工的に曲折した公算が大きい。
その川下において、さらに現在の切戸橋から西南西方向に張り出す形状を呈しているが、一帯の地形からいって、むしろ南流したと見るのが自然である。八口地区から旗岡山西麓の縁辺に沿った形で、流路はなだらかな弧を描いて内海に達したらしい。一八八七年(明治二十)作成の地籍図によると(図1)、ほぼその弧上に連なって、東豊井の小字井手・亀崎・丸堤・内堤・黒町・半上・堤田の地割や水路がたどれる。小島開作の東南部付近を河口としたのが、これらの現存小地割からつぶさに検分することができる。現に下松駅の東南方に古川・大みどろの小字名が残り、東南方向の縦長の地割は切戸川のかつての河道の痕跡をうかがわせて貴重である。もとより原始・古代における流路やその後の川筋の変遷をたどるには、何よりも発掘による地層調査の知見にまたなくてはならないが、地籍図に伝えられた地名・地割が、ある時期の旧河道を反映し、それを遺存せしめているとみて、それほど無理な推測ではない。旗岡山沿いのコースは、現流路に先立つ切戸川の旧い水流を示すものである。
図1 地籍図にみる切戸川下流域
平田川は生野屋から発し、花岡を経て末武下に流れる。その西方、温見・下谷を水源として南流する末武川の場合、末武上・末武中の流域に、地割が隣接する周囲のそれと対比して著しく方位を違え、不整形で錯綜した小字界線を画することが少なくない。出水・氾濫による耕地区画の不安定性と流路の変動を現地割上に如実に映し出している。
しかし、それ以上に末武川の本流筋の移動を物語るのは、山あいを流れ出た末武川が、末武上の上地・高橋付近で平地に向かい、西南進しはじめる現況に対し、前代の河道がむしろ直進する形で追跡できる事実である。地籍図の小字配置を見つめると(図2)、月見橋付近からそのまま南へ流れ、井手・大王・橋本・大崎・上古所・西花岡・東申川・西申川・高石・下高塚・前邨・流田・川尻・西青木・猿川といった小字が南北に列び、これらの両側に広がる方格の地割線とやや異なった方位の帯状区画が検出される。こんにち猿川と呼ぶ小流が、平田川と西青木橋付近で合流するが、この帯状小字は、あたかも猿川の流路と相即的に列ぶ。末武川の支流の痕跡かとも解せるものの、特徴的な地画の東西幅は五、六〇メートルを測るから、本来末武川本流の旧河道に相当し、現猿川はその衰退した水流を伝えるのではなかろうか。そうであれば、小字の錯乱は、末武川・末武中・末武下の地域に、全面的な碁盤目状の地割(第五章3)が施行され、その後、中世になって花岡市が形成されるまでの間の大出水に起因すると推定してよい。
原始・古代の河川の流路は、切戸川にしても、末武川にせよ、現在の位置とは相当な距離を隔て、そのうえしばしば氾濫をくりかえした。とくに河口一帯における河道の振れ幅は大きく、じじつ、切戸川・平田川・末武川の河口域には、流路の変転を刻んだ混雑した地割が共通して見出せる。もっとも、笠戸湾に注ぐ川の河口地形を述べるには、なお当代の海岸線を復原する必要がある。
図2 末武川下流の地籍図