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原始・古代の海岸線

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 市域の前方海面の地理的な様相が、現在目のあたりにする海岸線とまったく相違することは、いうまでもない。とりわけ遠浅干潟地は、十七世紀末の平田開作の築き立てにはじまり、開作は以後、西から東にあげてゆくと、鶴ケ浜・浜・西市浜・御開作・塩浜・新崎・小島・磯部・宮浦・宮ノ洲・宮ノ洲新田などが海面を埋め、笠戸湾岸を沖合に拡大していった。原始-中世の沿岸部の原地形は、したがって、おおよそ現山陽本線の上下一帯の東西ラインを基準に見当をつけることができよう(第二章、図6)。海抜約三メートル前後の等高線がいちおうの目安となる。むろん、単純な一線で画せるのではなく、末武川や平田川・切戸川の旧河口付近では、さらに湾入した情景が想起される。現小字で示すと、東部の舟入・中豊井・合六・七反田を結び、末武下と平田の九字界を経て、末武川の山崎橋にいたる一線以北の地が、当時代の大地空間とみなしてよかろう。