このような山間部に旧平坦地、それに笠戸島を加えた地域的な広がりのなかで、まず人々が居住し、生活を営みはじめたのは、城山・旗岡山の丘陵西麓地区、生野屋や末武上の南西丘陵地帯から山脚の傾斜地、さらに西の末武川下流右岸沿いの低い丘陵部などであろう。切戸川・平田川、それに末武川の下流域を前面に臨むやや高みの位置が、原始・古代人の生活適地に選ばれたに違いない。あわせて眼前に開けた氾濫沖積平野が、初期下松地方の人々の農業生産の場として、その生活を保証する天与の自然であった。なかでも末武川下流域の氾濫原地帯は、東西一~一・五キロメートル、南北三キロメートル前後の規模の農耕地となった。ほかに切戸川本流と支流の妹背川・山田川や小野川・吉原川の合流する小地域、平田川中流の谷頭平地もまた、小規模な水田経営を可能とし、それに接する丘陵先端が、狭小ながら日々の居住地帯となったであろう。
復原された旧地形から推定できる集落や耕地の立地状況は、じっさい、発掘調査にもとづく考古学の研究成果からも、ほぼ裏づけられる。市域南部の下松・末武平野を半円形に囲む丘陵斜面や台地上に、弥生・古墳時代の遺跡が点在するからである。各遺跡に関する記述は、第二章2・3に詳しいので、遺跡名だけを挙げると、弥生遺跡として、東部に東豊井の寺迫遺跡、西豊井の殿ケ浴遺跡・都町遺跡、河内の御屋敷山遺跡、末武下の尾尻遺跡・天王森遺跡・城山遺跡、北部に生野屋の宮本遺跡、末武上の花岡遺跡、西部に末武上の広石遺跡・宮原遺跡、末武中の和田遺跡がある。また古墳時代の遺跡には、東豊井の宮ノ洲古墳・寺迫古墳、河内の御屋敷山古墳、末武下の尾尻古墳・天王森古墳・常森古墳・為弘古墳、生野屋の西条遺跡、末武上の花岡古墳・南花岡遺跡・花岡一号墳・二号墳・日天寺古墳群・耳取古墳・上地遺跡・上地丘陵遺跡、福幸遺跡・上広石遺跡・広石遺跡、末武中の宮原古墳・荒神山古墳・市仏遺跡などがある。
末武上の上地遺跡の堆積層からは縄文土器片が発見されたものの、現在のところ遺構は確認されていない。弥生時代になって、宮原遺跡以下の住居地が広がり、ついで古墳時代前期の宮ノ洲古墳をはじめとする多くの古墳が、弥生時代の居住立地とほぼ重なって、市域南部の丘陵先端で半孤状に連なって造営された。旧切戸川の河口突端の砂州上に位置した宮ノ洲古墳や末武川旧河口右側の荒神山古墳にしても、被葬者と造営に当たった民衆の生活圏の先端に立地したことに変わりない。