原始社会人の生活を支えた水稲耕作は、すでに縄文時代晩期に、朝鮮半島南部を経て北部九州沿岸地方に伝わり、採集・捕獲を主要手段とした狩猟・漁撈に代わって、生産の主役となりはじめた。稲作はたちまち本州に伝えられ、下松地方の人々が稲の栽培による生産経済の段階に立ちいたったのは、やはり弥生時代を迎えてからであった。切戸川・平田川や末武川の流域でまず谷頭に水を引き、本流と支流が交わる低湿地や氾濫平野の自然堤防上に水田をひらき、稲作を開始した。それに対応して、人々は沖積平野の縁辺に住居を移動させることになった。
地面を掘り下げた円形もしくは方形の一画に掘立柱をたて、草や茅を屋根に葺いた竪穴住居のなかで、数人の単婚家族が生活をともにした。弥生終末期の宮原遺跡では、直径五-七メートル、または一辺約六メートル程度の円形、あるいは方形の床面に、家族が起居した実態が分かる。個々の住居址内では炉跡を検出していないから、炊飯用のかまどや井戸は、竪穴住居の外部にあって、世帯間で共有されたのであろう。その共有主体となった数個の血縁家族がまとまって、世帯の共同組織をつくり、それらが相互に結びあって、一つの集落を形づくった。水田や灌漑、排水用の水路の造成、農作業などの共同労働を通じて、集落単位の結合関係は一層強まった。また墓地は、集落共有の一地画として、集落からやや離れた山間部に占定され、さらに古墳は丘陵先端部に造営される場合があった。
稲作の開始に伴って生産経済が全面的に展開し、共同作業の果実は集落のクラに収納され、やがて剰余生産物は集落の首長の手元に蓄積されることとなった。さらに集落間の分業や交易を通じ、あるいは生産力の格差によって、有力な集落と弱小の集落との分化がすすんだ。切戸川水系でいうと、河口西端地域の集落は、川上の小集落にまさり、一方、旧末武川と平田川が合する末武上の地域は、平田川の中・上流域に対し優勢となったであろう。より強力となった集落の首長は、農作物だけでなく、金属製品の青銅器や鉄器などの私的所有を物質的な基礎として、階級的な支配者身分に成長した。共同墓地のなかに個人墓的な性格の墳墓があらわれるのは、その徴表である。有力な集落が辺隣の集落を統合することによって、より広い範囲の政治的地域集団が出現した。末武川・平田川・切戸川の下流域では、そのような有力な首長を中心とする村落結合が、弥生時代から古墳時代にかけて成立した。
北部九州や瀬戸内沿岸の西日本地方で政治的地域集団が形成され、中国の文献はこれらを「国」と呼び、弥生時代の後半、列島の倭人社会は百余国に分かれていたという。諸国の首長は、中国の朝鮮直轄機関のもとに、あるいは中国の王都にまで往来した。末武川・切戸川の沖積平野の開発にあたって、治水・灌漑工事に民衆を動員できたのは、地域的な政治集団内部における首長権の発達を端的に物語り、花岡古墳(未調査)や宮ノ洲古墳の造営そのものが、首長層の支配力の強さと威容を明示するものにほかならなかった。
ところが、鉄器の普及による農業生産力の発展は、他方で地域集団間の政治的、経済的な勢力の不均衡をより拡大した。抗争が生じ、地域集団の有力首長層は、周辺の最有力の王や首長と連合し、最有力の王が支配するいわば地域政権とも称しうる地域的な政治連合をつくった。この段階では、下松地方の首長と民衆は、のちのツノ地方を含む地域政権に併合され、その王を通じて、さらに畿内のヤマト政権の統属下に編成されたのである。