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古墳形式の受容

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 ツノ(都濃・都怒・都奴)地方が、当時もっとも強大な地域政権であったヤマト政権との統属関係に入ったのは、おそくとも三世紀をくだることはなかろう。邪馬台国の所在が畿内ヤマトに求められるならもちろん、たとえ九州北部に比定される場合でも、ヤマト政権の支配は、三世紀中にはツノ地方に達していたとみられる。もっとも、邪馬台国による政治的統属は、まだ部族的色彩の濃い政治集団間の連合にとどまり、単一の統治組織の実現に伴う統一的な国家を形成するに至っていない。
 列島内の国家形成の長い歴史過程において、三、四世紀のツノ地方が、どのような地域的な連合体に組織され、それがさらにヤマト政権といかなる統属関係をとり結んだかは、ほとんど明らかにできない。列島各地の社会的発展についても、三世紀は、文献的にも考古資料によっても、まだ十分解明しがたい状況にある。ただ、この時期のツノ地方とヤマト政権との政治的関係の一端は、つぎの四世紀に造られた古墳の被葬者が伝世、所有した宝器を介して、わずかに推測することができる。
 首長層の新しい葬送形式として、封土を盛った高塚式の古墳は、おそくとも四世紀初めには、ヤマト地方を中心に造営されはじめた。各地域の王や有力首長は、ヤマト政権の王に服属し、王権の継承儀礼としての古墳の築造を受け入れることになった。それとあわせて、その造営を梃子にヤマト政権による地域首長層の身分秩序がつくり出され、ヤマト政権と地域連合の王や首長との支配関係が、より強化されていった。
 しかし、両者の服層関係は、古墳形式の受容ではじまったのではなく、それに先立つ三世紀代、すでに成立していた。地域連合の王・首長らは、ヤマト政権と統属関係をもつようになると、服属と首長権の承認のシンボルとして、青銅鏡や鉄剣、石製宝器(鍬形石・車輪石)などの宝器を賜与されることがあった。とくに中国の三国時代の魏で製作、舶載された三角縁神獣鏡は、倭の対中国通交を掌握したヤマト政権のもとで一括管理され、その後、統属した地域の有力首長に分与されたという(第三章、1)。もっとも、この文様、形式の青銅鏡が、果たして魏王朝の手でつくられ将来されたか、そうでなく中国の工人が渡来し、倭国内で鋳造されたかは、目下議論のあるところで、速断できないが、依然、中国から伝来したとみなされる余地はある(本章、3)。この見地に立つと、各地首長のもとで伝世された魏鏡は、四世紀になって古墳が造営されはじめ、首長の権威が革新されると、伝世を絶ち、首長墓に副葬されることになったといえる。したがって古墳から発掘された三角縁神獣鏡を手がかりに、さかのぼって三世紀における地域首長とヤマト政権との統属関係の存在が、かろうじて復原できるのである。