ツノ地方では、下松市東豊井、宮ノ洲鼻の宮ノ洲古墳と新南陽市竹島の御家老屋敷古墳から、右に述べた三角縁神獣鏡が発見された。両古墳とも前期古墳で、宮ノ洲古墳の場合、一八〇二年(享和二)宮ノ洲山(埴常社境内)で畠地を開懇したさい、割石積の小石室と推定される古墳の主体部から四面の青銅鏡が出土した。発掘の事情は、開墾を願い出た幸吉なる人物の子孫、磯部際右衛門の「宮洲開発地石室覚」(『徳山毛利家文書』)に詳細に記されている。「享和二年(一八〇二)八月廿一日、畠地追々開立候処、凸之土地御座候故、地平し仕掛候処、石垣掘出し申候、其内に鏡・刀類御座候」とある。鏡は前後二回にわたって、四枚を収集したという。
宮ノ洲古墳出土の三角縁神獣鏡もまた、魏王朝から邪馬台国にもたらされ、ついでヤマト王権の手で下松地方の有力首長に分与、さらに四世紀になって、古墳に埋葬された経緯は、十分推測できる。もしかりに三角縁神獣鏡が倭国内で鋳造されたとしても、三、四世紀における下松地方の首長とヤマト王権との政治的関係のありようは、右とまったく同列に理解して差しつかえない。
ただし、ツノ地方の政治連合において、末武川・切戸川下流域と富田川下流域を、それぞれ自己の勢力基盤とした有力首長が、どのような結合や同盟の関係にあり、ひいてはヤマト政権との間にいかなる従属関係を形成したかは、かならずしも判然としない。それにしても鏡という宗教的、呪術的な祭器の分与を手段とする政治的統合の未熟さは否定しがたい。このような特殊視された青銅鏡を受け入れたツノ地方の首長の権威や社会も、すぐれて祭祀的、部族的な性格がつよく、司祭者的特性によろわれた王権支配の段階であったといってよかろう。少なくとも、ツノ地方一帯を管轄する政治連合をつくり出したものの、地域内部における首長権は特定の一族だけに固定されず、下松地方と新南陽地方の首長間で輪番的に継承されるという、文字通り部族的体制をとどめたことの反映であろう。古墳時代になっても、ツノ地方におけるこのような部族的連合は維持され、人々はその体制のなかで、日々の生活を営んだのであった。