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角国と紀氏

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 列島内におけるヤマト勢力による統治の拡大は、たとえば『日本書紀』崇神十年条にみえる四道将軍派遣の物語中で、吉備津彦が西道(山陽道に相当)を平定した所伝や九州地方征討のため、景行十二年条、仲哀八年条で、周芳のサバ(娑麽・沙麽。佐波郡地方に相当)地方を前進基地として進発した説話にもうかがえる。神功皇后の筑紫下向のさい、西豊井と末武下の境界を流れる玉鶴川で、船をつないで釣糸をたれ、玉を釣り上げたので玉釣川と名づけたといい、のち玉鶴川に変えたと伝える。また皇后は笠戸島に一宿ののち、笠を戸口に忘れて出立したという。ただ、これらはいずれも近世に発案された地名の由来譚の類にすぎない。
 周防灘沿岸のツノ地方が、さらにヤマト政権の朝鮮出兵過程において、中継的な役割を果たしたことは、つぎの『日本書紀』雄略九年条に記述する角国(つのくに)・角臣(つのおみ)伝承から知られる。五世紀の後半の事件として、ヤマト政権は、朝鮮の新羅を伐つため、紀小弓・紀小鹿火(おかひ)・蘇我韓子(大臣稲目の祖父)・大伴談(かたり)(大連室屋の子)らの軍を派遣した。小弓は朝鮮東南部の洛東江中流域の㖨己呑(とくことん)(慶尚北道慶山)を平定後、病死した。子の大磐(おおいわ)は父の死を聞いて新羅に渡り、派遣軍を掌握したが、内紛を生じ、百済の王都、漢城(ソウル)に進むことができず、小鹿火とともに帰国の途についた。ところが小鹿火は出兵が不首尾に終わり、天朝に仕えるに堪えないといって、角国に留まることを請い、大連大伴室屋は雄略大王にこれを奏して許された。紀臣らは角国に定住することになって、角臣と改姓した、と記している。
 雄略朝にかけられたこの角臣伝承が、史実としてそのまま信じがたいのは、いうまでもない。しかしそれにしても、古代における朝鮮派遣の兵船は、瀬戸内海を西に進み、関門海峡から対馬海峡を乗り切った。しかも内海航路は、通常、四国北岸沖のコースと山陽南岸沿いのコースをとった。前者は主として、紀伊半島を起点に鳴門海峡・讃岐沖・備後灘・来島海峡を通過する航路で、のちに七世紀の六〇年代、百済救援軍を派遣したときの斉明女帝らの一行がたどった船跡と後半一致する。とくに朝鮮外征にあたって主導的役割を演じた有力豪族、紀氏とその同族の分布地をつなぐ沖合いコースであった。
 紀氏関係者は、瀬戸内海沿岸地方で、文献上、讃岐国板野郡・寒川郡・刈田郡、伊予国越智郡や周防国玖珂郡と佐波郡に居住したのが分かる。そればかりでなく、じつは、周防国ツノ地方において、紀氏の存在を伝える史料がある。『防長風土注進案』の都濃郡金峯(みたけ)村(現鹿野町・徳山市)の須万(現徳山市)に関し、「往古は当地、須々万・中須一郷ニ而、文治・建久之比迄は紀ノ村と唱へ来候処、中納言雅頼之御子秋月丸、父を慕ひ赤間ケ関江下り尋ね玉ふに、父入水と聞、力を落し、詮方無、兎や角やとさまよひ給ひし所、平家の落人周防国ニ多人数住るよし伝へ聞候、当地江来り落人を便りニ住玉ひ、故郷なつかし迚(とて)、須万と改めたる」とある。近世の伝承ではあるが、さきの『日本書紀』雄略九年条にみえる紀臣を改姓した角臣の居住といい、八世紀、紀角臣を名のる氏が存在したことといい、紀氏一族がツノ地方に居住し、その地を紀村と称するにいたったとの所伝は、まったく付会の産物とはみなしがたい。
 さらに奈良時代の歴史を記録した『続日本紀(しょくにほんぎ)』の七九一年(延暦十)十二月条のつぎの記事は、紀氏の分布と山陽側から南海地方への移動を物語っている。讃岐国寒川郡人佐波部首牛養は、紀田島宿禰から出たもので、田島宿禰の孫米多臣が仁徳朝周芳(すおう)国から讃岐国に遷り、やがて佐波部首を名のったが、いま寒川郡岡田村に居住するので、居地によって岡田臣の姓を賜わりたいと願い、許されたとある。佐波部首は讃岐移住後の改姓というが、じつはむしろ逆で、もとサバ地方に住み、しかも自分の祖を紀田島宿禰と述べているから、ツノ地方の西に接するサバ地方にも、紀氏の一族が居住したことの証拠となる。
 内海の二つの東西航路のうち、もう一つの山陽沿いのコースは、さきの航路以上に利用され、難波津を発して赤石海峡を過ぎ、児島沖・芸予諸島間を経て大畠瀬戸を航行し、熊毛地方の仲合いで四国沖コースと合流して、ツノの浦やサバの浦に入ったのであろう。