七世紀半ば、ヤマト政権の最高執政者、蘇我大臣家が滅亡し、それを契機に、これまでの部民組織を土台とする氏姓制的な国家に代わって、新しく公地公民制を基本原理とする中国的な中央集権国家の創設を志向することになった。そのため、この大化の改革は、世襲職制による国造・部民制を否定し、律令法典を政治支配の根幹とする官僚制的国家に転換する一大画期となった。
『書紀』の大化年間の諸詔にみられる新政の内容については、その編修時における記述の潤色はおおいがたい。しかしそれでも新政権にとって、もっとも緊急の政治課題は、村落の共同関係の弛緩に起因して自立しつつあった戸の把握、地域支配の強化策にあった。それには在地の有力首長を国家の統治機構に組織し、個々の村落を再編する拠点的機関を新設することが必要であった。じっさい、大化の新政権は、中央官司機構の改革に先立って、部民制の廃止と不可分に、民衆の戸と村落を管掌するための地方組織、評(こおり)の建置を行った。大小国造領域のクニを分割、もしくは移行して、あらたに朝鮮系の地方行政単位の評制を採用し、七世紀の四〇年代末から、各地に評を新設した。評では、地域の有力首長が評司あるいは評造に任命された。評は郡の、評司は郡司の直接の前身に当たる。
ただ評の新設といっても、全国一斉に施行されたのではなく、地域によっては九〇年代になって成立した場合もある。したがって大化以後、評が設置されはじめながら、一方で国造が存続し、この両者の二重組織の併存する地方支配・民衆編成の段階が、七世紀後半の各地の政治的実態であった。
ツノ国造管内を包括し、さらにその周辺の広い区域を統轄した周芳凡直国造の領内も、大化後まもなく、評に分割され、有力首長が評司を任じられたであろう。評司に選任されたのは、末武川や富田川下流域を主要基盤とし、宮ノ洲古墳なり、御家老屋敷古墳に葬られた有力な首長の後裔(こうえい)であったに違いなかろう。ただし、評司の官人名としても、またツノ地方の評を継承した都濃郡の郡司名としても、氏名を記録に残していないのは、残念というほかない。ツノ評と称したのであろうが、東に接する熊毛地方に設置したのが、熊毛評で、一九六七年(昭和四十二)、奈良県橿原市の藤原宮跡から出土した木簡に、「熊毛評大贄伊委之(おおにえいわし)煮」と墨書した一点がある。熊毛評内の民衆が、内海で獲った鰯の煮物を天皇の供御料(くごりょう)として、藤原宮に貢進したさいの荷札である。当時の熊毛評は、のちの玖珂郡地方をも含む広い範囲にわたっていた。
評と大化後も残存したクニの上級機関として設置されたのが国で、政府から国司を派遣して管治した。周芳国は、『書紀』天武十年(六八一)九月条の「周芳国赤亀ヲ貢ズ、乃(スナ)ハチ嶋宮ノ池ニ放ツ」が初見で、全国的にみると、天智末-天武初年に国はほぼ成立したから、周芳国の場合、周防凡直国造領域のクニを再編して、天武年間までには設置されたのであろう。ついで『続日本紀』文武元年(六九七)十二月条に、周防など一一カ国が飢饉にあい、稲を給したとある。国司は任国に赴任し、一定期間在国するようになり、周芳国内の四、五の評の民政をつかさどった。
国と評とは、それぞれの地域で行政万般を取扱うための統一的な地方組織の上下官司を構成し、国・評制の拡大・整備、他方でクニの解体に伴って、ようやく一元的な中央集権的な地方機構が成立してきた。さらに評の下部組織として、民衆生活の場で民政の末端単位となったのが、「五十戸」と呼ぶ世帯集団で、部民制廃止後、五十戸ごとの徴税・納税の単位団体であった。地方行政組織が中央集権化する過程で、国-評-五十戸の形態をとりながら、中国的な法治国家、いわゆる律令(りつりょう)国家の形成と公民化政策が進展した。ツノ地方では、内海沿岸部に接する山脚地域を中心に、数力所の五十戸村落が評司のもとで編成されたと推測して大過ない。