六八九年(持統三)、わが国最初の律令法典である飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)が施行され、七〇一年(大宝元)大宝律令の全面実施によって、律令国家は確立した。日本の法治体制の原型は、これから始まるといってよい。その基本的特徴は、すべての耕地を国家の所有とし、それを前提として民衆を個別的、直接的に支配することにあった。そのため耕地を口分田として班給して田租を徴収し、調庸、雑徭以下の国家課役を負担する身分を、良賤制身分秩序のなかで公民として定めた。このような支配の原理と秩序を維持する国家機構が、中央政府の太政官・八省を頂点とする国-評(大宝令以降、郡)-里の組織であった。五十戸制は、全国的な戸籍の作成によって戸内部の戸口にまで国家支配が浸透しはじめた結果、均等規模の戸を五〇戸に編成する行政単位の里に代わった。
国司が在任し国務を執行する官庁とその官庁区域を国府、建造物を国庁と称するが、周防国の場合、国府が佐波郡に設置されたのは、一つには、国司制に先行した周芳凡直国造の本拠地、島田川下流域一帯から離れ、在地の有力首長勢力の影響を直接こうむらないようにする政治的意図のもとで、国府の所在地を選定したのではないかという点である。しかしそれにしても、国府は国内の中央部か、もしくは宮都に近い地点に位置する事例が少なくなく、都濃郡内でも玖珂郡でも立地できたにもかかわらず、かえって西に偏した佐波郡を選んでいる。サバの地がかつてヤマト政権に服属し、大王に諸物を貢納したサバ県の故地があった歴史的事情に着目してのことであろうか。都城内の宮のいわゆる朝堂院形式の建物配置をそなえた国府施設の整備は、平城京の造営と並行して、和銅-養老(七〇八-七二三年)の時期にすすんだのであろう。周防国司の長官、守(かみ)の位階が、初見の従七位下引田朝臣秋庭(七〇六年、慶雲三)から、従五位上山田史御方(七一〇年、和銅三)となり、以後、従五位下に定着するのと、時期的にも符合する。
周防国は、都濃郡を含む五郡で発足したが、七二一年(養老五)、熊毛郡を分割して別に玖珂郡を新設し、大嶋・玖珂・熊毛・都濃・佐波・吉敷の六郡となった。一国五、六郡の場合、国の等級は中国扱いであったが、七九三年(延暦十二)-八四九年(嘉祥二)の間に上国に昇格した。
国司の権限は、民政・軍事・司法・教育・宗教などのすこぶる広汎な分野にわたり、国府は、そのため古代律令国家の地方の行政・社会・文化の最大の拠点となった。国司の定員は、中国で守一、掾一、目一、史生三、上国になると、守一、介一、掾一、目一、史生三の規定であるが、周防国に関しては八四九年、目が二人となり、さらに介が定員化されたのは、おくれて八六五年(貞観七)のことであった。国司は、政府や国郡司との間で各種多様の文書を受給するだけでなく、朝集使となって庶政報告のため入京し、またしばしば国内諸郡を巡行して、民情視察に当たった。七三八年(天平十)の「周防国正税帳」によると周防国司の巡行は、年間一三回をかぞえ、守四回、掾九回、目一〇回、史生一二回、従者六二人、その間の延べ日数は一九七一日に達した。