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都濃郡の成立と郡域

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 周防国を構成する一郡としての都濃郡が、はじめて記録に登場するのは、じつはそれほど早い時期ではない。国内の他の五郡の郡名は、いずれも八世紀代の『続日本紀』や『正倉院文書』や藤原宮・平城宮出土の木簡によって確認されるが、ひとつ都濃郡だけは例外をなしている。しかしそうだからといって、八世紀に都濃郡の存在を否定するのは、もちろん不当である。郡の一般的な成立後における個別の郡の新設・分置こそ政府の記録に書き残され、現に玖珂郡の熊毛郡からの分立がそうであった。してみると、十世紀初めの編纂にかかる『延嘉式』民部上に、
  周防国上管 大嶋 玖珂 熊毛
        都濃 佐波 吉敷

とあるのは、周防国がさかのぼって、七二一年まで五郡、以後六郡の構成であったことを推定させる。九〇〇年前後の史料を集めて作成した『和名類聚抄』国郡部(大東急文庫本)にも、
  周防国 管六
      大嶋 玖珂 熊毛 都濃
      佐波 吉敷

と記す。
 現在、山口県都濃郡といえば、都濃郡鹿野町の一町だけの広がりを示すにすぎないが、下松・徳山・新南陽の三市域と鹿野町をあわせた行政区域が大化以前の有力首長下の政治世界から、最初の領域区分として出現した本来の都濃郡(評)域であった。それ以後、千二、三百年にわたる長期の行政的地域区分の骨格が創出された点で、都濃郡の成立は、きわめて重視すべきである。前節で律令国家の形成過程をとりあげたのは、単に列島内に統一国家が出現した事実を強調するためばかりでなく、そのことが同時に、都濃郡地方の住民の行政や生活にとって、現代にまで引きつがれた地域編成の原型をつくり出した点を、あらためて確認したいからであった。下松地方を包括する社会的、行政的な広がりと単位が律令国家の成立とあわせて、七世紀末-八世紀初頭にかけて、新しく設定された歴史的意義は、下松市の全史を通じて、決しておろそかにできないというべきである。
 もっとも、都濃郡の地理的範囲はそれほど明らかではない。南限が内海(島を含む)でほぼ画されたのはいうまでもないが、東西域は地形的にみて熊毛郡・佐波郡との境界をなし、それは判然とはなしがたい。川で郡境を定めたわけでもなく、山地や丘陵の形状によって、おおまかな郡界を意識したのであろう。北方の山間地帯は、一層不明確にならざるをえない。それどころか、郡境といった境界線はもともと存在せず、その必要さえなかった。国の場合でも、周防と安芸の間は、七三四年(天平六)になって、大竹川(小瀬川)をもって国境となすとある。律令国家においては、山川藪沢といった耕地化されない自然の大地は、入会地のような地域民の共同用益の地であったから、郡界を明確にしなくてはならない現実的な理由は存しなかった。郡はむしろ集落が数個まとまった集合体で、前代からの在地首長、末武川や富田川下流域の有力首長の勢力が及ぶ地域世界の範囲が、律令国家成立後、行政上都濃郡と名づけられたといってよかろう。いずれにしても、古代では、下松市域だけで完結する歴史は、まずありえないのであり、もっとも狭い地域をとっても、有力首長の領域範囲、すなわち都濃郡地方を単位とする歴史的な広がりを念頭におく必要がある。