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正税帳にみえる「都濃郡」

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 都濃郡の名は、平安中期にようやく史上に登場するとはいえ、都濃郡に該当するとみてよい史料として、七三四年の「周防国正税帳(しょうぜいちょう)」(年次ごとの収支決算簿)の記載がある。同正税帳は現在その大半を失い、一部が正倉院に残っているにすぎないが、断簡部分の記述は、某郡、さらに別の某郡につづいて佐波郡、ついでおそらく吉敷郡、末尾が国司の署名部分となっている。第一の某郡は、記載中に「塩竈壱口」とあって、八世紀後半、周防郡(熊毛郡か)の有力首長で凡直国造氏の後裔、周防凡直葦原という人物が塩三千顆(九〇石)を貢献しているから、もしかすると熊毛郡分の事項ではないかと推定する。

「天平六年周防国正税帳」(正倉院宝物)

 第二の某郡は、わずかに七行分の記述にすぎないが、つぎのように書かれている。
  糒肆伯参拾壱斛
  酒壱拾斛玖斗捌升弐合〓四〇
  正倉弐拾伍間
  借倉弐間
  借家壱間
  合弐拾捌間不動穀倉六間、動用穀倉五間、糒倉一間、頴倉一十五間、頴稲借家一間
  鎰弐勾不動鎰一勾常鎰一勾

 記載内容は、郡の役所(郡家)ごとに貯置した糒(ほしいい)(乾飯)・酒などの数量と、それらを収納する正倉(国府に所属する倉庫で、多くは郡家に分散)とその鍵を記した箇所である。
 右掲の正税帳部分け、正倉院文書のマイクロフィルムで確認したところ、同一紙のなかで、鎰(かぎ)弐勾のすぐつぎの行に佐波郡の項目を掲げるので、郡の記載順で佐波郡の前の郡であるに違いない。『延嘉式』『和名類聚抄』以下における周防国内の郡を列記する順序は、どれも大嶋・玖珂・熊毛・都濃・佐波・吉敷の順で、大嶋郡のつぎは、東から西に順次書きあげる形式をとっている。この記載方式が八世紀から踏襲されたとすれば、当正税帳で、佐波郡の前に接続する記事は、おのずから都濃郡関係分ということになる。都濃郡の七三四年の財政にかかわる記載のうち、郡の正倉に貯蔵された籾米と穎稲(脱穀以前の稲穂状の稲)の前年度繰越し分、当年度の借貸稲(国司が無利息で貸付ける稲)の収支、田税収入、さらに全体の決算額などの項目部分が欠損し、それにつづく糒以下の現在額の項目が残ったとみることができる。
 当時の都濃郡家に貯えられた糒は四三〇斛(こく)(一斛はのちの約四斗)、また酒一〇斛九斗八升二合は四個の𤭖(みか)(大甕)に納まっていた。推定の熊毛郡には、糒三五九斛九斗四升、酒一四斛一斗四升三合、吉敷郡は糒一七三三斛、酒一四斛八斗九升四合とある。郡家関係の建物でもっとも多い正倉は、都濃郡家に二八間、吉敷郡三五間、また四年後の七三八年の「周防国正税帳」にみえる周防国正倉の総数(六郡)は一六六間と記録する。都濃郡に関する事実上、最初の史料は、はなはだ限定されているものの、八世紀の正税帳の記述を通じて、郡の財政内容や郡家周辺の実態を、かろうじてうかがわせて、すこぶる貴重である。