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都濃郡家と都濃郡司

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 都濃郡家を構成する正倉二八棟の内訳は、経常的な支出にあてず非常の場合の支出のために備蓄した不動穀倉が六棟、一般支出用の動用穀倉五棟、糒倉一棟、借貸や出挙(すいこ)(国司が年利五割で稲を貸し付ける)のような貸付頴稲用の倉一五棟、頴稲用の臨時の倉一棟となる。もちろん、郡家の主要な建造物は、郡司の職務執行に直接必要な郡庁・館舎、厨家(くりや)などであった。郡庁は郡の行政や儀礼の場が、国府の政庁建物の配置と同じく、都宮の朝堂院形式の正殿・後殿、東西の脇殿などがあって、郡庁院とか郡院とか呼んだ。館舎は一館から四館まで番号をつけ、それぞれ宿舎、向屋、副屋、厨屋などがあって、郡司の四等官の官舎や公用の使者の宿舎にあてられた。その一画は館舎院といった。厨家は、竈屋(かまどや)・酒屋、納屋などをもち、郡家における公式の饗宴に食事を用意する施設で、厨院と称した。正倉群もまた特定の区画を有し、正倉院と呼んだことはいうまでもない。都濃郡家もまた、ほぼ右のような建物・施設をそなえ、特定の区域を形づくっていたであろう。発掘された他の郡家の遺構は、方一町(一〇六メートル)ないし二町程度の規模の事例が多い。あるいは東西一町、南北一・五町の場合もある。ただ正倉院は、火災のさいの類焼を防ぐため、郡庁域から五〇丈(約一五〇メートル)隔てて造立する定めであった。
 中央政府が派遣する周防国司の統轄下で、郡司は在地社会に直接かかわる行政実務を担当した。地域の有力首長を任用し、その多くは旧国造級の首長の子孫で、伝統的な名望と権威ある諸氏のなかから選ばれた。周防国司のうち守の官位は、上述のとおり従五位下(令に規定する担当位階は、中国の守が正六位下、上国の守で従五位下)であったのに対し、郡司の長官の大領が外従八位上、次官の少領は外従八位下を授けられ、国司と郡司の官人身分の懸隔は歴然としている。しかも郡司の位階は外位といって卑姓出身の官人に特有の身分的標識を付けられた。郡司が国司に出会うと、たとえ位階は上位でも、下馬の礼を尽くさなくてはならなかった。
 しかし郡司は在地出身の官人であり、国司の任期が六年ないし四年の規定で、じっさいはさらに短期間の在任であったのに反し、終身で多く世襲の官であった。地方行政上における郡司の実質的な権勢は、きわめて強大で、律令国家は在地の有力首長を郡司に選任し、国家機構の末端部に編入することによって、はじめて地方統治の実をあげ、民政を円滑に運用しえたといってよいのである。
 都濃郡は、すぐ後で詳述するように、七里(七一五年、霊亀元以降、里は郷となる)で構成された。郡は里数によって五等級に分け、大郡、二〇里-一六里、上郡、一五里-一二里、中郡、一一里-八里、下郡、七里-四里、小郡、三里-二里であった。都濃郡はしたがって、下郡にランクされたことになる。下郡の場合の郡司定員は、四等官のうち、大領一、少領一、主帳一で、第三等官の主政を欠いたはずである。
 このほか郡家には、多数の下級官人や雑用に従事する公民が徭丁として勤務した。やや時代は下るが、八二二年(弘仁十三)の太政官符に列挙する郡家関係の雑役者は、書生四人、案主二人、鎰(かぎ)取二人、税長六人、調長二人、駆使五〇人、器作二人、造紙丁二人、採松丁一人、炭焼丁一人、菖丁三人、駅伝使鋪設丁四人などであった。しかしこれらは、当年、公民の雑徭を全免した結果、それに代わる雑役者に食料を支給するため、人数を言上させたもので、この人数は、あくまで雑徭労働分に見合う必要量にすぎない。したがって郡家付近には、右の定数をはるかにこえる人々が労役に従ったとみなくてはならない。こうした雑役にあたる単純労働の人々や、識字層ともいうべき人々が寄宿する建物も、常時用意されたことになる。