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都濃郡内の郷

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 このような郡司や多様な民衆労役者をあつめた都濃郡家の所在地については、後で述べることにして、ここで都濃郡管内の集落の分布状態を概観しておこう。『和名類聚抄』の現存写本のうち、もっとも古く室町中期をくだらないとされる大東急文庫本によって、郷名をあげると、つぎのとおりとなる。
  都濃郡
            止无
   久米 都濃 富田   生屋 駅家 平野 駅家
            多

 これらの七郷を、現在の地名に対比するのは、それほど困難ではない。多くは関連地名が残り、その遺名を通じて古代の郷の位置が比定できるからである。じじつ、従来の諸説の推定地は、ほぼ一致しているようにみえる。いま吉田東伍『大日本地名辞書』(一九〇七年、(大)と省略)、御薗生翁甫『防長地名淵鑑』(一九三一年、(防))、山口県編『山口県文化史』(一九五一年、(山))の比定地をあげてみよう。
久米郷(大)久米村・徳山村
(防)花岡村・末武南村・久米村・徳山町・大華村
(山)久米村
都濃郷(大)未詳
(防)須金村・須々万村・中須村
(山)須金・須々万・中須
富田郷(大)富田村・加見村・富岡村
(防)富田町・加見村・富岡村・長穂村
生屋郷(山)末武北村・末武南村・久保村・豊井村
(防)生野屋村、久保村のうち山田・久保市・来巻・切山、米川村
(山)生野屋
平野郷(大)福川村・夜市村・戸田村・湯野村
(防)平野・福川・夜市・湯野・戸田
(山)新南陽市平野

 諸説は、推察するに現在の村落を当時の郷名と結びつけ、しかも都濃郡内の全域をいずれかの郷内に包含させようとする点で、ほぼ共通の観点と比定作業を行っている。しかし律令国家の地方行政組織の末端単位である郷は、はじめから特定の区域をもって設定されたのではなく、郷の基本的な性格は、五〇戸という戸が編成された世帯集団ということにある。したがって、一定の地域的な区画で郷を割り切るのは、そもそも無理というものである。戸に対する掌握と土地の支配とは別個であって、土地は、戸に班給した田地がとくに行政上の対象となったにすぎない。
 それに郷が五〇戸を基準とするのは、課税のために行政単位を編成したからであり、自然村落を二次的、人為的に分割、もしくは合併して、郷をつくり出した。小規模な集落の場合、一郷として認められず、最寄りの郷に付属して課税に応じることさえあった。納税のとりまとめに当たるのが、郷内の有力者の郷長(里長)である。地縁的結合が未発達な段階で、律令国家は自然集落をそのまま行政村落に代置するわけにはいかなかった。郷が地域区分の性格を帯びてくるのは、律令国家の解体期からである。もう一つ注意したいのは、先行諸説は、旧村あるいは大字単位で郷域を復原する傾向があるが、古代の集落立地は、現在の集落とまったくつながらない事実がある。発掘調査の知見によっても、古代の村の位置が現存集落の所在地と重なることは、まず実例を見ない。一般的に、現代の集落はさかのぼっても室町時代の村までしか、たどれないのである。