こうみると、生屋・久米・富田・平野の各郷は、それぞれ下松市生野屋・徳山市久米・新南陽市富田・平野に、その地名を継承したというべきで、遺名の地がただちに古代の郷と合致するかどうかは、慎重な吟味を要する。上掲の所説にそくしていえば、生屋郷は末武、豊井・河内・あるいは米川までを含む地域に想定するのでなく、『山口県文化史』のように生野屋をまず当てるのが順当である。しかしその場合、生野屋だけに限定せず、生野屋から花岡・末武の東部にかけての山脚部に散在する民家の存在形態を想起できるのではなかろうか。以下、久米郷は末武川右岸の丘陵西斜面を中心に、また富田郷は富田川下流域に、平野郷は新南陽市永源山の西方平坦地一帯に比定されることとなろう。
ただ都濃郷に関しては、郡名こそ都濃の地名があるが、小地名としての都濃は残っていない。もっとも、ツノと称する小字名があって、その一帯を都濃郷に推定する説がある。すなわち徳山市須々万、下角(しもつの)の地である。須々万支所の東方、県道三七六号線沿いに、下角、下角東、下角西、下角上、下角中、下角下という小字が、よくまとまった一画を形づくっている。しかし、下角の現地に立って、四周の地形を見渡すと、古代の一郷が存在したにふさわしい場所とは、とうていみなしがたいことが分かる。都濃郷は、名称から都濃郡の郡家所在地となるから、下角付近を都濃郷の遺称地とする説は、同時に都濃郡家が下角地区にあったと主張する。それならなおさら、山が南北から迫る須々万川の小谷底を郡家の所在する都濃郷とするのは、困難になる。郡司に任用される譜第の有力首長家の勢力基盤とは考えられず、また交通路の点でも、郡家の位置には不適である。
その他の二つの駅家郷は、生屋駅家郷・平野駅家郷とする解釈(『防長地名淵鑑』)もあるが、生屋・平野両郷と駅家とは別の行政単位である。元来、駅家郷は、行政村落ではなく、本章、3で述べるとおり、駅家の業務を遂行するための特定戸、すなわち駅戸の集団以外ではなかった。その限りで、『和名類聚抄』(高山寺本)が、都濃郡を、
久米 都濃 富田度无多 生屋 平野
と記すのは、郷本来のあり方からうなずけるところである。平安中期以降、駅制の衰退に伴い、駅戸集団が行政村落化し、やがて駅家郷と名のったのであろう。したがって二つの駅家郷は、おのおの生屋駅家・平野駅家に起源をもつ新しい郷であったこととなる。