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都濃郡家の推定地

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 ここで都濃郡家の位置にたちもどると、むろん下角説を考慮に入れながら、交通条件を重視して、山陽道沿いに比定できないであろうか。山陽道ルートについては次節でとりあげるが、もし下角地区に郡家を設置したとするなら、富田川をさかのぼり、現徳山市大道理経由で行くか、徳山市東川を遡上し、錦川上流との分水嶺、徳山市一坂の杉ケ峠を越えるか、あるいは末武川をさかのぼるか、また周東町長野から通ずるか、どれをとっても相当迂回のルートとなる。山陽道は、玖珂・熊毛郡は別として、内海に近い地帯に設定されたとみるのが適当で、郡名を冠した郷に郡家をおき、都濃郷に都濃郡家があったとすれば、都濃郷も山陽道沿線に求められてよい。『和名類聚抄』の郷名の記載順に何らかの原則を認めると、都濃郡七郷のうち、前半の三郷と後半の四郷に分けられよう。後半の生屋・駅家・平野・駅家は、駅家と結びつくいわば本郷と枝郷を組み合わせ、東から生屋-(生屋)駅家、平野-(平野)駅家と配置したといえる。これに対し、前半の三郷もまた東から順次、久米-都濃-富田とならべたと解される。それなら都濃郷は、久米-富田間に比定されてくる。一つの仮説として、徳山市の東川下流域一帯に注目したい。今後、都濃郡家跡にかかわる発掘調査が実施されることを期待する。
 なお下松市域の行政村落となった生屋郷は、もともと生野屋とか生能屋などと書いたのであろうが、七一三年(和銅六)、地名に二字の好字をつけることになって、生屋郷と表現したのである。