周防国都濃郡生屋郷の実体が七世紀後半から八世紀初頭にかけて成立すると、下松市域に居住した農民は、生屋郷という一つの行政村落の構成員として登録され、生活と農耕の日々を送ることになった。その実態は、文献史料にほとんど残っていないから、当時の一般的な状況に依拠しながら、文献以外の資料を活用して、下松地区の古代人の生活実相を復原することにしよう。
生屋郷を構成する五〇戸の戸は、通常の家族や世帯を意味しない。戸は国家の租税を負担するために設定された徴税の末端単位で、均等規模に調整され、擬制化された家族であった。むろん、実際の家族や親族関係を利用したが、課税を負担する正丁(二一-六〇歳の男子)を三、四人含み、一戸平均二十数名の大家族であった。郷の基礎単位であったから、これを郷戸と称し、戸主をはじめ、その妻妾・男女・兄弟、さらにほぼ従父兄弟(いとこ)(姉妹)までの範囲と、場合によっては非血縁者や奴婢を加えた。郷戸内部で日々の消費の単位となった数人の家族を房戸と呼んで、二、三の房戸が郷戸をつくった。奈良時代の戸籍・計帳の記載から一郷の平均戸数を計算すると、一三〇〇人余となる。房戸は、一辺四メートル前後の竈(かま)をしつらえた方形の竪穴住居で生活するか、一部有力農民は二間(柱間は一・五-二メートル)×三間程度の平地式の掘立柱住居を営みはじめた。一郷は最大五九戸、下限は二五戸とも一〇戸ともいい、規模に幅をもたせたものの、多くは五〇戸に整えた。生屋郷が前述(本章、2)のようなあり方をしたとすれば、五〇戸村落であったとみて、大過なかろう。
生屋郷の農民は、六年ごとに実施される戸口調査によって作成された戸籍や毎年作成した計帳に登録され、一人ひとりが、戸を通じて掌握された。また生屋郷は都濃郡に結びつき、周防国府に統轄されることになって、農民は律令国家に直接、個別的に支配される体制のなかに編成されたのである。