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公民の租税負担

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 戸籍への登載は、一方でウジ・カバネによる国家身分を確定することであった。公民層はウジを名のり、貴族・豪族層はウジとカバネと称し、また奴婢はウジをもたず、身分的な序列化が明確となった。末武川下流域で勢力をたくわえた有力豪族とその一族は、もし戸籍の類が残っていれば、ウジとカバネを誇示できたにちがいない。生屋郷の公民の多くはウジに部名をつけ、かつての部民の子孫であることを身分標識に示したはずである。
 いま一つ、戸籍と計帳がもつ機能は、国家の課役負担の原簿となった点である。身分諸階層のなかで、課役を負担したのは、公民だけで、租庸調(そようちょう)、雑徭(ぞうよう)、兵士役などの貢納物・力役を課せられた。諸税のうち、ただ田租だけは、受給の全身分が負担した。六歳以上の男子に二段、女子に一段一二〇歩、奴婢は良男良女のそれぞれ三分の一の口分田が班給され、一段につき、二束二把(四升四合)の田租、平均収穫量の約三パーセント分を納入した。標準的な一郷で約一九〇町の口分田を耕作し、その田租額は年間、四一八〇束(約八四石)の計算となる。公民は口分田のほか、麦や桑などを栽培する園地と宅地を私有し、さらに郷の周辺に広がる丘陵地や海・川を共同の用益地として、活用した。
 庸(よう)はもともと、年間一〇日間、京における労役に差発される無償の徭役制度で、実際には徴用されることはなく、労役の代わりに庸として正丁(二一-六〇歳の男子)が麻布幅二尺四寸(約七二センチメートル)、長さ二丈六尺(約七・八メートル)、次丁(六一-六五歳の男子)がその半分の一丈三尺を貢納した。また調は、絹・布・綿などの繊維製品、塩・鰒・雲丹・海藻などの海産物を、各地の特産に応じて納入した。正丁四、次丁二、中男(一七-二〇歳)一の比率で課せられ、麻布なら正丁の負担額は、調と同じく二丈六尺であった。大嶋郡や吉敷郡から、八世紀の四〇年代、調の塩も貢上したことが、平城宮出土の付札木簡によって知られる。正丁はさらに、調の付加税として、染料の植物、胡麻油・紙などの副物(そえもの)が徴収された。調の副物と中男の調は、やがて中央政府が必要とする物品を中男の使役で調達する中男作物という新税に代わった。平安中期に法令を集大成した『延喜式』主計上によると、周防国の貢納物は、
  調    短席六百三十枚、自余ハ綿・塩ヲ輸ス
  庸    綿・米ヲ輸ス
  中男作物 紙・茜・黄蘖皮・海石榴油・胡麻油・煮塩年魚・鯖・比志古鰯

であった。都濃郡生屋郷の住民たちは、立地条件から推測して、賦課物の大半を塩や魚などの海水産物で貢納したのではなかろうか。このほかの負担に、稲の出挙(すいこ)がある。本来、春の播種期に種稲をくばるという一種の勧農機能にはじまり、律令国家の租税体系に組み込まれるようになって、収穫後、五割の利子稲を加えて回収する高利の租税的な貸付け制度に変わった。
 さらに国司の権限で、国内の堤防の築造や官舎・正倉などの修理といった公的事業に徴用される雑徭(ぞうよう)があった。正丁は六〇日、次丁は三〇日、中男一五日が使役の限度で、しばしば上限日数いっぱいに徴発された。また京・畿内地方における都城や官寺の造営など、大規模な土木工事に、畿外の民衆がかり出される雇役(こえき)の制があった。雑徭とは異なって有償労働であったが、強制的な性質は相違なかった。兵士役は一戸一人を差点する原則で、周防国内に二ないし三カ所、設置された軍団に番をつくって配属され、一部は衛士となって、一年間、京内の警備に当たった。また各郷二人が中央官司の雑役に徴発され、郷から生活費の仕送りをうけながら、三カ年駆使される仕丁も回わってきた。
 公民が貢納、奉仕する諸税目のうち、田租・出挙や雑徭は、周防国府の行政運営の財源として、国府または郡家に運搬、正倉以下の倉庫に納入され、あるいは国司の監督下で国内の各地で使役された。これに対し、調や庸は、政府の財政上の用途に当てられ、奈良や平安の都まで進上した。運搬や往復の経費は、すべて納税者の自弁であったから、税とあわせて過重な負担となった。八月中旬からはじめて、遠国にランクされた周防国の場合、十二月末までに京進を終えなくてはならなかった。国司または郡司らが、調庸物の運搬夫の一団を引率して上京した。公民は途中、野宿をくりかえしながら、法定所要日数、往路一九日、帰路一〇日の行程を旅することになった。帰途は担荷がなく、往路の約半数の日数を規定した。