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生屋郷の人々の生活

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 周防国都濃郡、生屋郷の人々の生活を、春から冬までたどってゆくと、ほぼつぎのような一年の営みとなろう。当時使用の唐の儀鳳暦(ぎほうれき)(太陰暦の一種)でいって、まず二月に郷の社に集って農業の神を祭る仲春の豊作祈願でその年の農耕がはじまる。この田祭りのさい、郷内の老人は酒宴をひらき、同時に男女が参加して、政府の法令を読み聞かせるのが慣例であった。三月になると、苗代づくり、四月、上手の水がかりから田植えがすすんでいく。そのころ、国司が各地を巡回して、出挙稲の貸付けを済ませる。六年ごとの班田の年にあたると、前年の正月に着手された戸口調査が五月に終了して、土地の検校がはじまる。六月に入って、計帳を作成するため、郷長は戸主が申告した家族の異動をとりまとめて郡家に送り、国司は、戸口一人ひとりを実検しながら、申告内容を確認した。九月に入り、稲の品種の早晩に応じて収穫がはじまり、十一月末までに、生屋郷の西方に設置されたと推定される都濃郷付近の都濃郡家に、田租を進納した。戸籍作成の年には、十一月上旬から勘造しはじめ、三通の戸籍を翌年五月末までに完成しなくてはならない。郷の社に会同し、新穀を神に献じて、豊穣を感謝する秋祭は、その間の賑いであった。しかしまもなく調庸物を調達し、京に向う一カ月をこえる運脚の出立ちを迎えることになる。十二月末がその納期であった。
 郷の人々にとって、律令国家との直接的な接触は、租税貢進・労役徴発や法令下達の場だけではなかった。七三八年(天平十)の「周防国正税帳」によると、国司はたびたび国内を視察した。前述のとおり(本章、1)、年間一三回のうち、巡回の目的は、勧農一、恩勅による賑給(稲を給付)一、神社造営一、出挙二、計帳作成一、義倉(困窮者に粟を支給)一、稲の作柄調査一、官用の馬牛の検校一、駅馬・伝馬の検校一、調庸徴収一、民情視察一、駅使の巡察一、田租徴収一、となる。諸郡・諸郷をくまなく巡行し、郷の人々は国司官人と対面した。日常的な生活の中で、律令国家の統治を身近かに体験する機会となったに違いない。
 一方、生屋郷の周囲に社祀が建ち、縁起類によると、花岡八幡宮・松尾八幡宮(生野屋)・切山八幡宮・米川神社などが、すでに郷人の信仰をあつめたという。また日天寺(末武上)に所蔵する如意輪観音(にょいりんかんのん)像は、もと徳山市久米の日面寺伝来の金銅半伽思惟(こんどうはんかしい)像であったという。日天寺はまた全面焼損をうけた鋳銅勢至菩薩(せいしぼさつ)像を蔵する。両仏とも白鳳期(七世紀後半-八世紀初頭)の作とされ、後者はとくに、六七二年(天武元)の鋳造と伝える。