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末武川流域の条里区画

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 農業生産の主要な母体となった水田は、第四章、1で検討した地理的条件からみて、末武川と平田川の沖積低地一帯であった。水田の区画は、三六〇歩を一段とし、一〇段を一町とした。正方形の一町を坪と呼び、三六個の坪、方六町が一里(国郡里の里とは別の耕地区画名)であった。一里内の坪に、一ノ坪から三十六ノ坪まで数詞をつけ、里の一隅を起点に平行式、もしくは蛇行式による坪並があった。里もまた六町幅でならび、一ノ坪から六ノ坪の方向に数える条と、それと直交し、里内の坪並の第一列から第二列の方向に数える里の呼称とがある(図3)。このような方形地割法によって、何条何里何ノ坪というと、ある坪の位置が特定できる仕組みであった。班田収授を実施するための、このような耕地地割を条里制という。

図3 条里地割図

 下松市域で比較的早期に水田耕作がはじまった末武平野一帯に、条里地割が施行されたことは、十分想定できる。いまなお末武上・末武中・末武下と生野屋地区に、方百数メートル、もしくは百数メートル×二百数メートルの正方形、または長方形を単位区画とする整然とした水田地割が現存する(図2)。とりわけ末武地区では、方位を北で東に約四〇度振った畦畔と、それに直交する畦畔をもつ耕地が、北は末武川の前田橋付近から下流の主として左岸地域に展開する。その南限線(正確には西北-東南の方位)については、一九二一年(大正十)九月に完成した耕地整理事業(第四編第二章、2・(1))によって、地割は再編成されたから、古代の条里制を踏襲した水田地割を山崎橋から平田川の大海町橋のラインまで拡張することはできない。耕地整理は、市道中央線の二町北の畦畔以南で実施されたが、それ以前の地籍図の地割からいって、少なくとも、条里地割は中央線の二町分南の畦畔・水路の線までの範囲で復原できるのではないかと推定する。中央線の南に接し、平田川寄りの小字を中縄(下松工業高等学校の敷地の北側)といい、加えて末武中と末武下の大字界線(末武中、小提と末武下、清水の間)の一部と合致するからである。そう解してよいなら、二百二、三十町に達する条里域の復原が可能となる。