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末武の猿振里

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 その場合、さらに付け加えなくてはならないのは、第一に各地の条里遺構に関する計測によると、坪の一辺(一町)が、かならずしも一〇六メートル(当時の唐大尺による一町)ではなく、一〇九メートルとなっている点である。末武平野についてもこれに近く、使用した尺法のちがいで説明するより、畦畔の幅分を加算して、条里区画を設計した結果とみてよい。
 第二に、この地域には方形比割を残しながら、条里制特有の坪名・里名が見出せない点である。もっとも、坪付名や条里の古称が残っていないからといって、ただちに条里制の施行を否定するのは、もちろん行きすぎであろう。じじつ、一二〇〇年(正治二)の周防国阿弥陀寺田畠坪付(『阿弥陀寺文書』)によると、都乃六町九段一八〇歩のなかに、つぎの記載がある。
  末武一丁
   猿振里
    十九坪二段西依  大郎丸
    廿坪三段西依   延末
    廿七坪二段西山  恒重
    廿八坪三段北山下 吉末

 末武内の猿振里(三六町からなる条里の固有名)一町分が、鎌倉時代初期、阿弥陀寺の所領であったことが分かる。末武は、現末武上・末武中・末武下地区につながる地名とみて、支障なかろう。猿振の地名は現存しないが、末武上と末武中を南流する猿川は、なお猿振川と呼ぶことがあるという。それにしても末武上の東申(さる)川、西申川や末武下の猿川が、猿振川を省略した小字名であるかどうか、簡単には決しがたい。
 いずれにせよ、鎌倉時代、末武と称する地域で十九ノ坪以下の坪名を用いたのは、古代から条里制が施行された証拠となる。右の四坪だけでは、坪並を復原するには十分ではない。一九・二〇・二七・二八の各坪をどのように配置しても(平行式、蛇行式)、相互に一円的にまとまる坪とはならないであろう。西山や北山下という注記が、今後、末武一町の田の所在を現地に比定するうえで、有力な手がかりになるといってよい。その点、猿振里は地形的な状況からみて、大局的には末武地区の西北部に相当するのではなかろうか。
 数詞をもつ坪付や猿振里の呼称が、現在に伝わらない原因の一つは、末武川がしばしば氾濫し、それに伴い流路が左右に大きく振れ(第四章、1)、小地名と地割もまた変更や消滅を余儀なくされるという、耕地や自然堤防の不安定条件に求められるであろう。生屋郷の農民は、この末武川の慢性的な出水や氾濫の猛威とたえず格闘し、農耕をつづけたのである。こうした所業や、大地に刻まれた条里地割と地名の変容の激しさをふりかえっただけでも、現代によみがえってくるといわなくてはならない。