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条里地割の復原

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 下松地区における条里地割の痕跡は、さらに平田川流域の生野屋・末武上にわたる帯状の河川谷にも見うけられる。生野屋の日本ゼオン社宅付近から花岡市の西端までの、平田川両岸、東西約一三、四町、南北二、三町の間に、やはり、一町方眼状の地割が残る。畦畔の方位は、北で東へ約一〇度傾斜し、さきの末武川流域にみられた条里地割の基軸線とも、著しいずれがある。そのほか条里施行の関係史料として、一六一〇年(慶長十五)「都濃郡豊井村打渡坪付」(徳山毛利家文庫)に記録する豊井の志(四)の坪・大坪(一筆の耕地が一町の坪に由来する)・八反か坪、一六二六年(寛永三)「御打渡牒」(同)豊井村坪付の一ノ坪・四ノ坪・八ノ坪・八反坪・大坪などがある。坪の位置は明らかにできないが、いずれも条里坪名に起源する地名であることは容認できる。ただし、現小字名に残存しない。
 なお、末武条里といい、平田川流域の条里といい、真北方向に対し振れた施工となっている。条里区画は、一般に国または郡単位で設定される場合が多いものの、自然地形に規制され、郡内をさらに小地域に区分して実施した事例がある。下松市域に関する限り、少なくとも末武川と平田川の流域の条里遺構は、方格地割の基準線を異にし、それぞれ旧水路に直交する方位を基本に地割を設定したと解するのが当たっていよう。
 それにしても、現存の耕地区画が、ただちに古代の条里地割に合致するとは、いい切れない。現地割は、いかにも一町単位の方格状を呈しているとはいえ、各地の条里の発掘調査によると、現耕地を区分する畦畔・水路の地下に、そのまま古代の条里遺構が埋没している場合と、両者の間に差違がみられる場合がある。将来、市内三カ所の条里地域に発掘調査が行われ、埋没条里の築造時期とその後における地割の変遷が解明できるようになれば、生屋郷の人々の水田をめぐる生産の実態が、じかに再現される手がかりを与えてくれよう。