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山陽官道と駅家

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 律令国家は、平城京や平安京まで、都城の中央政府を頂点として、地方の国-郡-郷(里)を一元的に統治する中央集権的体制をつくり出した。そのため、都城を起点とする放射線状に通達する交通路の整備が不可欠であった。この全国的な交通体系をなす幹線道路が七道で、大路・中路・小路に大別した。大路は山陽道、中路は東海・東山の二道、小路が北陸・山陰・南海・西海の四道と格付けされた。唯一の大路となった山陽道は、都京と、朝鮮・中国との国際交通の要衝で、しかも西辺防備の拠点となった筑紫の大宰府とをつなぐ外交・軍事の主要ルートであり、先進的な外国文化流入の要路となった。都濃郡地方もまた山陽道上に位置し、その大路としての役割の一角を担ったのである。
 山陽道の交通機能を現実に果たしたのが、計画的、政治的に敷設した官道と、馬を交通手段として往来・運送・伝達に当たる駅伝のシステムであった。山陽道ルートを現地に直接復原するのは、官道そのもの、あるいは関係施設が遺構的に確認されていない現在、厳密にはまだ保留するのが妥当である。しかし官道の駅伝施設である駅家の比定地と地形を参考にしながら、おおよそそのルートを推定することはできる。駅家は、官道上、原則的には三〇里ごとに設置した。当時の一里は五町、一町は唐大尺の三六〇尺で、一里は一八〇〇尺となる。三〇里はしたがって、五万四〇〇〇尺(一尺は二九、六センチメートル)に相当し、約一五・九キロメートルの距離になる。もちろん、険阻な地勢の地や駅馬・伝馬のための水草に乏しい地域では、適宜、駅家の間隔を伸縮できた。
 周防国内の駅家は、もともと一〇駅を設置したが、八八九年(寛平元)、まず大前駅(防府市右田大崎)を廃止し、ついで十世紀はじめまでにもう一駅(駅名不明)を停止した。『延喜式』兵部省や高山寺本『和名類聚抄』によると、つぎの八駅をあげる。比定地を下に併記しよう。
  石国  岩国市関戸
  野口  玖珂町野口
  周防  光市小周防
  生屋  下松市生野屋
  平野  新南陽市平野
  勝間  防府市勝間
  八千  山口市鋳銭司矢地
  賀宝  山口市嘉川

 駅名不明の駅家は、設置間隔からみると、平野-勝間間に建てられたのではないかと推定する。これらの駅家を連結してゆくと、細部は別として山陽道のルートが浮びあがってくる。