ビューア該当ページ

生屋駅と山陽道ルート

104 ~ 105 / 1124ページ
 生屋駅家は、いうまでもなく下松市生野屋の遺跡地名があって、この地区に設置されたことは、まず動かないであろう。ただ、生野屋のどの地点かということになると、生屋郷との位置関係から、問題が少なくない。まず周防国内の山陽道を、東から通行すると、石国(岩国市)・野口(玖珂町)の駅家を経て、周防駅に着く。同駅を熊毛郡今市・呼坂付近に比定する説もあるが、山陽道ルートは、周東町上久原を通り、同町用田の二井寺(奈良時代中期に創建と伝える)の西方を迂回して、光市小周防に出、島田川の氾濫原を横切り、その支流の笠野川をさかのぼって熊毛町大河内から下松市峠市に抜けるコースも十分考えられる。このようにみてよいなら、かつてのヤマト政権の進出路(第四章、2)との関連が生じ、むしろ、それをうけついで山陽道が整備されたとみることができる。周防駅を小周防地区に推定する一つの理由である。
 古代官道は、都城と国府を最短距離で結ぶため、平野部では可能な限り、直線的に設定する作り道であった。これに反し、周防国東半部では山間地を通るコースが多く、いきおい地形に即応したルート選定とならざるをえない。峠市から切戸川の谷あいをぬって、久保市に出ると、現JR岩徳線久保駅の北方、切山地区の南端、国道二号線沿いに東西に長い小字、大道が見出せる。すぐ北に接して小字沓(くつ)ぬきがある。古代山陽道に因んだ遺称地名であろう。さらに西にすすんで生野屋地区では、山脚部の宮本付近を通過するルートが一考に値する。生野屋の北部に立石や大道の小字名が残る。立石の地名は、古代官道の標識に用いた石の立柱にはじまる場合があり、大道の地名が久保市の大道とともに、山陽道ルートを示す痕跡とすれば、山田地区の山間下腹部を通って、松尾八幡宮付近に設定されたこととなる。末武上地区でも、ひきつづき北寄りのコースを抜け、花岡八幡宮が鎮座する八幡山の北側から、上地で末武川を渡って、高橋から徳山市坂本に出る、というルートを推定する。
 もちろん、この路線以外に近世の山陽道に近いコースがまったく想定されないというのではないが、いずれかといえば、山寄りのルートがより古代官道に適当するといえよう。末武中の宮原遺跡の七号墳から出土した轡(くつわ)は、八世紀代に山陽道を通行した官使が使用した馬具の一つとみられ、山陽道が広石から徳山市久米を通ったとする資料ともなりうるが、古墳造営地は、官道ルートとは別個に説明がつくのである。
 それでは生屋駅の所在地はどのように推定されようか。現在、生野屋・末武上地区に駅家に直結する地名や遺構は発見できない。しかし、山陽道がやや北回りコースをとったのであれば、立地条件から、もしかすると松尾八幡宮の西方一帯に比定できるのではないかと思われる。あくまで一つの臆測として、後考をまつことにする。