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生屋駅家の業務

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 生屋駅家は、官使の往来、文書の逓送のための公的施設として、駅館、厩舎、宿泊施設、調度・稲を収納する倉庫などであり、駅門を構えて築地をめぐらし、駅家院・駅館院と呼んだ。他国の駅家で屋二棟、倉八棟を記録した例があるが、大路の交通を担う生屋駅家は、より充実した設備を配置したにちがいない。山陽道のうち、周防・長門・安芸・備後の駅家は外国使節の通行に備えて、とくに瓦葺き、塗り壁の造りであった。駅家には駅長と駅子をあて、富力があって事務能力のすぐれた者を駅長とし、課丁(十七-六五歳の男子)が駅子として、官使の送迎・接待や駅馬の飼養につとめた。
 大路の山陽道は、各種の官使の往来が頻繁で、それだけに駅戸の労働はたえず過重となった。「山陽ノ駅路、使命絶エズ、西海ノ達道ヲ帯ビ、迎送相尋(ツ)ギ、馬疲レ人苦シム、交モ存済セズ」(『続日本紀』天平神護二年(七六六)五月条)と述べる。また「(山陽道ノ)駅戸ノ百姓、使命ヲ遙送ス、山谷嶮深、人馬疲弊ス」(『類聚三代格』大同元年(八〇六)六月官符)といって、新任の国司の赴任するさい、陸路を海路に切りかえる措置をとった。「駅子ノ徭役、公戸ノ民ニ異ナル、上下ノ公使、一日モ間ナシ、日夜ヲ論ゼズ、風雨ヲ障(サワ)ラズ」(『寧楽遺文』上、宝亀四年(七七四)二月官符)とある。生屋駅家の負担も、これに準じて察知することができる。
 生屋駅家に常時用意した駅馬は、大路の駅家として、二〇足と定められたが(中路の駅屋に一〇疋、小路の駅家は五疋)、実際には二五疋を備付け、八〇七年(大同二)になって、山陽道の駅馬は、各駅家二〇疋に減じた。駅家を構成した駅戸は、八世紀の前半においては、戸を丁数によって三等に分けたさいの中戸(正丁が三、四人)を選び、その後は資財の多少を基準とする九等戸(上上戸-下下戸)のうち、中中戸をあて、それぞれ一駅戸が駅馬一疋を飼った。したがって、生屋駅家に駅馬二〇疋、はやくは二五疋を用意したのは、駅戸が二〇戸、もしくは二五戸であったことを意味する。駅家の財政にあてたのが、駅起田(あるいは駅田)で、駅家近くに、大路の場合四町をあてがった。駅戸が耕作するのでなく、公民の雑徭をふりむけた。駅(起)田が駅家の経常費をまかなったのに対し、駅起稲(駅稲ともいう)は、臨時の支出に用いるためであった。駅館の造営や修理などの経費は、駅起稲を出挙によって運用した。
 この章の2で述べたとおり、都濃郡内の郷について、大東急文庫本『和名類聚抄』は、生屋・久米・都濃・富田のほか、生屋・駅家・平野・駅家をあげる。しかし駅家は当初から行政村落であったとか、既存の村落を便宜的に駅家に転換したとかではなく、近くの生野郷や平野郷から各二〇戸(または二五戸)をさいて編成した、駅伝業務のための戸の集団にすぎなかった。あくまで律令国家の交通体系を創出する目的から人為的に設置されたのであった。現に高山寺本『和名類聚抄』は、駅家を村落とはみなさず、駅家郷として掲記することはない。山陽道以下の官道が、都京と国府・大宰府間、国府と国府間を直結する交通幹線として、政治的意図から敷設されたのに対応して、駅家もまた、既存の村落の戸の一部を排出して編成されたのである。
 山陽道の駅家を利用し、駅馬と休息・宿泊施設・乗馬具・食料の提供をうけたのは、駅馬使用証の駅鈴を支給された官使だけであった。公文書を逓送する使者、緊急用の伝達使、さらに通常の公務出張者である。駅馬の速度は、急速の場合、一日一〇駅、つまり一六〇キロメートル以上、一般には八駅が標準であった。実例として、八世紀の中葉、大宰府で起こった藤原広嗣(宇合の子)の乱の第一報を伝える使者が、大宰府を発して平城に到着したのは、五日目のことであったという。平城京-大宰府間は約七〇〇キロメートルとして、急速の使者は、一日百数十キロメートルを疾走した勘定となる。もちろん、生屋駅家を含めて、昼夜兼行で駅馬を乗り継ぎ、目的地を目指して疾走したのである。