人や物、文化や情報が、官道と駅家を往来、移動、交流し、とりわけ律令国家の地方統治の大動脈として、山陽道は設置され、その役割はすこぶる重要であった。官使の通行には、右の駅馬=駅戸の利用のほか、さらに伝馬=伝戸を手段とする伝使の制があって、諸国の郡家に一律に伝馬五疋を備えた。伝馬は、郷内の男丁の多い戸から選ばれた伝戸が飼養し、不足した場合、郡内の私馬を徴用することができた。主として郡家間の連絡、郡内の公的交通に用いられた。
駅馬と伝馬の使用は、周防国に関して、七三八年(天平十)の「周防国正税帳」の官使往来事項の内容から、つぎのように理解することができる。正税帳の記述には前欠部分があって、同年中の官使の全容は知りえないが、六月-十二月の間に、四〇組、二〇九人の官人、従者らが、生屋駅家を上下、通行した。ところがこれらの官使は、じつは駅馬を利用する駅使ではなく、すべて伝馬に乗った伝使に限られている。『延喜式』主税下に規定する正税帳の記載様式は、官使の往来を駅使・伝使の順序に並記する。してみると、「周防国正税帳」に伝使項目の後半部分が残っているのは、元来、伝使の前半部分とさらに駅使の記載があったはずにもかかわらず、それらの事項が欠損した結果であることを示している。
しかも、伝使四〇組のうち、支給した食稲が四日分とあるのが三三件(三日分とするのが一件)、往来(往復)で八日分とするのが六件(六日分が二件)で、四日分(往復で八日分)の行程とするのが圧倒的に多い。それにまたどの項目も向京使、または京からの下伝使とあって、周防国内は単に通過した遠距離通行者であったから、伝馬を使用したといって、駅馬のルートと別な道を通ったわけではないことが分かる。伝馬も駅馬と同じく、山陽道を上下したとみなさざるをえない。この事実は、周防国都濃郡以下の郡家が、いずれも山陽道沿いに設置されたとみる、いま一つの有力な証拠となる。都濃郡家の所在地を徳山市須々万、下角地区に比定する旧説は、伝使がことさら都濃郡域で北に迂回する理由が何もなく、この点からも再考を迫るものである。
律令国家の交通規則によると、急速非常の事態の場合、駅馬を使用し、通常平時のさいは伝馬を利用するという区分があって、この二種の往来が、官使交通体系の主軸となったといえる。ところが伝馬は大路と中路・小路の別なく、郡家ごとに同数であり、山陽道の場合、常設の五疋のほかに民馬を徴用することが多くなった。もともと伝馬と駅馬の利用に使途の緩急・軽重の区別を設けながら、住民の負担がそれだけ加重されたため、七九二年(延暦十一)、山陽道に限って、公民の労役を省かんと、伝馬を廃正した。『延喜式』規定に、山陽道諸国の郡家における伝馬の配置は、すでに見られない。
都城と大宰府、諸国府間を最短距離で連結する計画道路の山陽道は、公民の労役に依存しながら、官使の通行、公文書の送達を目的とし、駅家や郡家という官衙施設と駅馬・伝馬という官馬を交通手段とする、きわめて排他的な交通路であった。都濃郡生屋郷の民衆が、当時閉鎖的な集落をはなれ山陽道を往来するのは、調庸物を都京に貢進するときか、もしくは衛士・仕丁・雇役の労働に差発される場合であった。むろん駅家・駅馬を利用する便宜はまったく与えられず、食料・炊飯具・寝具を携行し、路傍に野宿しての辛苦にみちた長い行旅であった。山陽官道の使途の限定的な閉鎖性が明白に読みとれる。