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内海ルートの笠戸泊

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 山陽道上の生屋駅家が、官使の往来を基本的使命とする駅伝制の中継地であったのに対し、瀬戸内海交通において、都濃郡地方はまた要津の地であった。対外的な朝鮮との海路通交上、当地方がその要衝地点の一つであったことは、上述の紀小鹿火の角国滞留伝承(第四章、2)からも十分うかがえるところである。笠戸島と大華山半島にいだかれた下松沖の海面、あるいはその両方の湾入部は地形が生み出した自然の良港であった。瀬戸内海の山陽南岸沿いコースと四国沖コースが合流する熊毛沖に、もっとも近いのがこの笠戸の浦であった。四世紀代、下松地方の有力首長は、伝世した三角縁神獣鏡を権威の革新によって、自らの古墳に副葬した。それが、生活立地となった切戸川・末武川下流域の丘陵地からややはなれて、宮ノ洲の砂洲の先端に造営されたのは、沖合いを航行する船上の人々に向かって、おのれの権勢を誇示しようとする意志をあらわしたのであろう。
 くだって、十二世紀前半(保延三(一一三七)-四年)、内海を旅した蓮禅というひとりの僧侶は、笠戸泊に着いて、つぎの七言律詩を詠じた(本朝無題詩、七)。
鳴榔連日任軽飛舟板ならして魚いざり
笠戸泊中徐晩輝笠戸の泊に夕映え残る
江岸風時松子落浜辺の風は松笠を落し
野扉雨処豆花肥夏月の雨、豆花の盛り
五湖遁越范公去江南の范蠡(はんれい)は越へ去り
八月指呉張翰帰八月、張翰は呉に帰る
朝暮往来人不朝暮の往来絶ゆるなく
知賢士隠漁磯一 賢者の磯べに隠るとは

 海津の利用は、さらに川筋の舟運を通じて、より上流の地域との交流を広げることができた。下松地域の開発は、こうした海水上における舟路と結びついて、一層発達した一面を、また見失ってはならない。