ビューア該当ページ

北辰降臨をめぐる伝承

111 ~ 112 / 1124ページ
 ここで平安時代、律令国家がいかように変貌し、解体して、それに伴い下松地方の社会が中世へと、どのように転換したかをとりあげるまえに、下松地域史にとって、何よりも避けて通れない関心の一つである下松の地名の由来について、一節を設けて検討しておこう。
 下松の地名の起源に関して、現在二つの有力な見解がある。一つは、北辰降臨をめぐる伝承で、当地方でもっとも広く受入れられ、いまになお生きつづける伝承といってよい。下松市の自治体標語"星ふるまち"歴史と伝説の町、下松"は、地名説話にもとづく地域文化と将来展望の特性を宿して、すこぶる魅惑的である。
 文献史料に記録された北辰降臨伝説を述べると、まず「大内多々良氏譜牒」につぎのようにみえる。六〇九年(推古十七)周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木の上に、大星が降りくだって、七日七夜、赫々(かくかく)と照り輝いた。巫人(みこ)の託宣によると、異国の太子が来朝するのをあらかじめ守護するため、北辰が降ったのだという。この異変に因んで、降臨の地を下松浦と名づけ、星を祭って妙見北辰尊星大菩薩と呼んだ。三年後、百済国斉明王の第三皇子、琳聖(りんしょう)太子が周防国多々良浦(防府市)に来着し、難波の荒陵(あらはか)(大阪市四天王寺)に行き聖徳太子に謁し、大内を采邑地として与えられ、また多々良(たたら)の姓を賜わった。その後妙見大菩薩を下松浦から桂木(かつらぎ)宮に遷し、宮ノ洲山の嶺に上宮、中腹に下宮をまつったが、琳聖太子の五世孫、茂村(しげむら)(「大内系国」によると、『玉葉』治承二年(一一七八)十月八日条に見える流人、多々良盛保の六代前の人物)は、さらに大内氷上山(ひかみさん)に妙見を勧請した。
 大内氏の始祖が百済の琳聖太子であり、その来朝に先立って北辰尊星が天下ったのが、青柳浦の松の上で、その地を下松浦といい、尊星を現在西豊井の妙見宮にまつるにいたったとするものである。下松の地名は、一つの星が松に降ったのに起源をもつという所伝である。