ところが、これとほぼ同じ内容の伝承は、ほかに「鷲頭山(ずとうざん)旧記」「妙見縁起」や各種の大内氏系図などにも述べる。しかし、ここで想起すべきは、多々良氏が百済王家の後裔と主張しだしたのは、百済が滅亡した七世紀後半より、相当後代のことで、多々良氏を改姓した大内氏が、十四世紀末に建国した李朝朝鮮と通交するようになってからであった。一三九九年(応永六)、大内義弘は朝鮮の定宗に使者を遣わし、「我、足百済ノ後ナリ、吾ノ世系ト吾ガ姓トヲ知ラズ、百済ノ土田ヲ請ウ」(『李朝実録』)とあるのが、その初見史料である。その後、盛見・持世・教弘・政弘とあいついで遺使し、とくに大蔵経を求めつづけた。
琳聖太子が史上に登場するのは、一四〇四年(応永十一)教弘が氷上山興降寺本堂の落慶供養の願文のなかで、「当寺ハ扶桑朝、推古天王治世ノ御宇、百済琳聖太子建立ノ仏閣ナリ」と記すのが、もっとも早い。さらに教弘は、一四五三年(享徳二)朝鮮の端宗に一書を呈し、以下のように述べた。「多多良氏、日本国ニ入ル、ソノ故ハ則ハチ、日本カツテ大連(物部連守屋)等、兵ヲ起シテ仏法ヲ滅ボサソト欲ス、我ガ国ノ王子聖徳太子、仏法ヲ宗敬シ、故ニ交モ戦ウ、此時、百済国王、太子琳聖ニ勅シテ大連等ヲ討タシム、琳聖則ハチ大内公也、コレヲ以テ聖徳太子、ソノ功を賞シ州郡ヲ賜ウ、爾来、都居ノ地ト称シ、大内公ト号ス」(『李朝実録』)。はじめて大内氏の祖を琳聖太子とする所見を披瀝している。大内氏は、朝鮮との外交を有利にすすめるためあえて百済王の子孫であることを吐露し、始祖を琳聖太子に仮託しはじめたのであろう。
「大内多々良氏譜牒」では、琳聖太子を百済王の第三子とし、一方、教弘の書は、明記しないが、物部守屋討滅の五八七年(崇峻前紀)当時、入朝したという。「譜録」に記す百済王の系譜は、余映-昆-慶-牟都-明-淹-昌-璋(斉明王)-琳聖太子、となる。これに対し百済国の正史といえる『三国史記』(十二世紀に編修)の百済本紀は、斉明王はもちろん、琳聖太子も、記述することがない。武寧王(隆)-聖王-(明穠(めいじょう))-威徳王(昌)-恵王(李)-法王(宣)-武王(璋)-義慈王、と継承する系図となっている。しかも、「大内家系」(毛利家文庫)や末武本「大内家系」(多賀神社文庫)において、琳聖太子を武王璋(六〇〇-六四〇年)の子とし、「鷲頭山旧記」、江木本「大内家系譜」(毛利家文庫)は璋明王の子、また石清水本「大内家系図」(石清水八幡宮)は、済明王の子、さらに「譜牒」は、斉明王の第三子、とする。陶弘護肖像画(徳山市向道、竜豊寺所蔵)の賛には聖明王(五二三-五五三年)第三皇子とある。
諸系図類にみえる璋明王を、じつは仮空の王でありながら、諱(いみな)璋の武王と諱明穠の聖王の王名からつくった王名と解してよいなら、大内氏の始祖を順次より古い時代の百済王に繰り上げていった仮託の述作過程がたどれるであろう。石清水本「系図」や「譜牒」にいう斉明王も実在せず、聖明王に擬してはいるが、なお別王とする意図にもとづく作為にちがいない。系図作者特有の時代を遡上させ、系図上の始祖そのものを、より権威づけようとする趣旨を読みとることができる。氏祖ばかりでなく、それとあわせて琳聖太子の来朝年代も、同じくよりさかのぼらせようとしている。「譜録」は六〇九年(推古十七)、「旧記」は五九五年(推古三)に北辰尊星が降臨し、そのそれぞれ三年後に来朝したと述べ、さらに「妙見縁起」は、敏達朝(五七三-五八五年)入朝したと記している。