右のように琳聖太子の名が史料に現われるのは、十五世紀初めからであり、さらに大内氏の始祖を琳聖太子に仮託するのは、はやくても十五世紀半ばのことであった。都濃郡青柳浦に北辰大星が降りくだり、そのことが下松浦の地名の起源となったとする伝承が、したがってそれ以前にはじまったとみることは、とうていできがたい。ただ青柳浦に降臨した北辰尊星が、琳聖太子の守護神となったとする説話のモチーフは、十五世紀にはじめて構想されたにしても、かかる伝説を生み出し伝承しえたのは、それなりの社会的、宗教的な基盤が下松地方に、すでに存在したからに相違なかろう。
もともと妙見菩薩は、上天の王、北斗星の主星北辰(北極星)の本地にあたり、長寿延命・息災招福の霊験をもつと信じられた。わが国で、そうした妙見信仰は、はやくから受容され、奈良時代、畿内地方に妙見寺や妙見菩薩の霊異を示す仏教説話が記録されている。『日本霊異記』(九世紀初頭の仏教説話集)のなかに、河内国安宿(あすか)郡内の妙見菩薩を安置する寺院で、布施の銅銭を盗んだところ、菩薩が変身して異形をあらわしたと伝えるのは、その一例である。また大和国高市郡の呉原忌寸名妹丸(ないもまろ)が海上で漁獲中突風にあい、妙見菩薩に発願して救助された話がある。河内国安宿郡は、百済からの渡来者が集団的に居住した地域として著名であり、呉原忌寸は、百済系の東漢(やまとのあや)氏の一族であるから、わが国における妙見信仰と百済人とが関連をもち、妙見信仰自体朝鮮百済からもたらされたのではなかったかと推測せしめる。
古代下松地方が、ヤマト政権の朝鮮経略の途上において瀬戸内海航路の中継的な要衝であったことは、上に述べたが(第四章、2参照)、とりわけ百済との交通の間に、百済の文化や信仰が伝来し、北辰信仰もまた受容されたと考えて、それほど無稽なことではなかろう。下松を百済津の転訛とし、下松の地名をこれによって説明しようとするのもあながち付会の説とはいえない。下松の地名起源をめぐる第二の説であるが、ただし、クダラノツが言語学的に、どのようにクダマツに変化するか、説得的な論拠は見出せないようであり、ただちに賛同しがたい。それにしても、下松地方と百済との文化的交流を掘り起こそうとする視点は、十分評価してよい。下松地方が北辰妙見信仰の一つの拠点であったことが、中世になって、都濃郡青柳浦に北辰尊星が降臨し、妙見大菩薩を尊崇するようになったという地域伝承生成の背景となったのではなかろうか。
なお北辰降臨説話にみえるいま一つの主題は、琳聖太子を大内氏の祖とする伝承があるが、この両者を結びつけたのが、ほかでもなく、下松地方における妙見信仰であったといってよい。大内氏と妙見信仰とのかかわりは、鎌倉時代下松地方で台頭した鷲頭氏(第二編第二章、1)が、南北朝期になって、山口地方の大内弘世に討たれ、それに伴い大内氏は、下松の妙見宮を山口に勧請したのにはじまるのではあるまいか。「譜牒」や「旧記」は、その時期を盛房の三代、あるいは五代まえの茂村の代とする。
いずれにせよ、この時代になって、青柳浦に北斗尊星が降りくだり、ついで百済の琳聖太子が来朝、やがて太子を大内氏の始祖にしつらえるという、北辰の下松降臨の伝奇物語が、いちおう完結することになった。しかし、この説話の成立に先行して、大内氏と李朝朝鮮との通交があり、大内氏は自らを百済人の後とし、ひいては百済琳聖太子をその上祖とする系譜上の主張をくりかえしていた。それが因由となって北辰降臨説話が構想され、下松の地名を歴史的に説明する根拠とされたのである。
市内北斗町(下松駅の北方)の金輪神社境内に一本の松がある。かつて降臨の松、連理の松、相生の松の三本の松が並び、北辰尊星が降臨した松があったと伝える。一九五一年(昭和二十六)建立の記念碑に「下松発祥之地、七星降臨鼎之松」と刻字する。一方、北辰をまつった桂木宮は、のち高鹿垣に移り、さらに鷲頭山(河内)にかわった。上宮・中宮・若宮(吉原)が座し、社坊の一つ、閼伽井(あかい)坊は鷲頭寺と号した。一八七〇年(明治三)、社名を降松神社と改め、七九年神仏分離で西豊井、中市に移動した。