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律令国家支配の衰退

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 周防国の国府や都濃郡の郡家と、山陽道を通じて直結した律令国家の郡域は、古代貴族の繁栄を象徴した大和平城京から、七八四年(延暦三)山背の長岡京へ、さらに十年後、平安京へと遷都した。奈良末期以来の政治的、社会的動揺をくいとめ、政治の刷新を図ろうとするのが、平安京造営の主目的であったといえよう。しかしそれにもかかわらず、律令国家の民衆統治の基底をなす公地公民制の衰退はおおいがたく、国家的土地所有と良賤制身分秩序が崩壊し、やがて十世紀以降、律令制社会は急速に変容する。農村社会で台頭した在地領主が土地、人民支配の新しい編成と秩序をつくりはじめたからである。
 八世紀の中期以後、田地の荒廃と戸口の増加に伴い、口分田の不足を生じ、政府は農地の開墾を積極的に奨励、墾田の永代私有を認めることによって、公地制の原則が崩れることになった。その結果、貴族・大寺院の大土地所有が再開され、荘園は一層発達した。それらは、浮浪人を使役し、在地の有力豪族と結んで公民を雇い、大規模な開墾を行った。村落内部において、郷戸間の階層分化が進行し、地域豪族や有力郷戸主層は、稲・布・塩・牛馬・鉄製農具などの優越した動産所有をその経済的基盤として、逃亡した公民や奴婢を隷属させ、新田の開墾にあたった。かかる有力豪族は、私的な営田を出挙によって資財を蓄積し、在地社会の再編の主体となって、富豪の輩と呼ばれた。都濃郡に東接する熊毛郡(周防郡)の周防凡直氏は、八世紀後半、銭一〇〇万貫、塩三〇顆(九〇石)を国分寺に寄進した、周防国随一の富豪の輩であった。
 そのころ、周防凡直氏の所有した隷属民が、光仁天皇の皇子他戸(おさべ)親王と名のり出る事件が起こった。ところが当の他戸親王は、母の井上皇后が天皇を呪ったのに連座し、すでに配所で二人とも奇怪な死を遂げていた。結局、この隷属民は民衆を惑わしたかどで遠流となった。称徳前天皇自身、未婚の女帝であり、しかも皇太子さえ定めていなかった不穏な皇位継承事情と道鏡の皇位への野望にうかがえる天皇権威の失墜という時代状況のなかで、山陽道西端の地において、隷属民が身分的隷属から自由な行動をとりはじめたことを示している。隷属民層の自立は、良民と隷属民の間の通婚禁止の法を揺がし、八世紀末、両者間の子は良民とする措置を承認せざるをえなくなった。律令による国家的身分秩序の根底は、かれらの生活する村落社会の内部の結婚規制の衰退のなかから、崩れていった。やがて十世紀はじめ、律令国家の基本的な構成原理の一角であった良賤制は、ついに全面的に廃止となった。
 もう一つ律令国家体制を支える基本原理であった班田制は、貴族・寺社や在地豪族の墾田の拡大によって、しだいに行きづまり、九世紀になると、六年間隔の班田は十二年間に延長され、それも十世紀初頭を最後に、以後、班田の実施を伝える記録は見えなくなる。末武川・平田川・切戸川の各下流域に開かれた条里水田も、有力な豪族や農民の私田と化すことが少なくなかったであろう。
 公民が負担した律令税目の内容とその収取方式にも変化があらわとなった。徭役の徴発が困難となり、国司が使役する雑徭は、八世紀末、年間六〇日を半減し、九世紀後半には一〇日に短縮、しかも無償労働は食料支給の労働に代わった。兵士制も八世紀の末期に廃止され、郡司級の有力豪族の子弟を常備軍に編成する健児制へ切り換えられた。負担体系全体のなかで徭役の比重が著しく軽減し、現物貢納の負担が増大した。それも、人頭税として賦課された調庸物は、国府が正税(国府の稲)で代価を支払って買上げ、京進することになった。男丁が個別に貢納する調庸物は名目だけで、実質的には国ごとに交易によって税物をとりそろえたにすぎない。公出挙もまた、本稲を何ら貸出すことなく、はじめから利稲分のみを徴収する税目に変わり、種稲賜与という本来の勧農機能は、まったく喪失した。