以上のような律令制租税体系の変質は、律令国家の衰退に派生した民政上の延命策であったが、より根本的には、社会の構造そのものの変化が、古代から中世への移行の動きを準備しつつあった点に目を向ける必要がある。戸口把握のための基本台帳として、六年(計帳は毎年)ごとに作成された戸籍(計帳)は、平安時代に入って、形式的には十一世紀はじめまでつくられたものの、家族の実態を正確に記載されなくなった。国家の負担をのがれるため、逃亡・浮浪者が増加し、性別・年齢を偽って申告する風潮が広がったからである。
九〇八年(延喜八)、周防国玖珂郡玖珂郷(現玖珂町)の戸籍をみると、残存部分の一四戸の総戸口三三九人、うち男九〇人、女二四九人、六五歳以上の耆老(きろう)・耆女は一二一人、一七歳以下の小子はわずかに四人(すべて一五歳以上)となっている。女子と高齢者の比率が圧倒的に高く、不自然に男子・若年者が少ないのは一目瞭然である。課役免除の対象者を多くするための虚偽の申告であることは、もはや指摘するまでもない。男子のうち、課役を負担する課口は、正丁(令では二一-六〇歳。当時二二-五九歳に改訂)、老丁(令で六一-六五歳。当時六〇-六四歳)、中男(令で一七-二〇歳。当時一八-二一歳)を合わせて三三九人中、七〇人だけであった。しかも一四歳以下が皆無であるのは、九〇八年までの二度の造籍分、つまり一二年間、玖珂郷、ひいては玖珂郡、周防国では、造籍を実施しなかった事実を物語っている。
同じ周防国内の都濃郡生屋郷や駅家郷でも、十世紀の段階になると、村落の実態は、上述の社会情勢と大同小異で、戸籍の制が乱れ、五〇戸一郷制は、国郡組織の末端機構としての支配、徴税の機能を失い、郷は単なる地域の呼称にしかすぎなくなった。かつての生屋駅家が駅家郷として『和名類聚抄』国郡部に掲載されたのは、五〇戸規制、さらには郷が中央集権的な行政組織の構成単位としての性格をもたなくなった事態を如実に伝えている。九六六年(康保三)、周防国在任中に清胤王が、都乃(つの)・多仁(たに)(熊毛郡田布施町。のち多仁庄を設置)両村の田を措置したという(『平安遺文』一-二九〇)、都乃村も、従来の郷ではとらえられない村落呼称であった。郷に代わって、有力豪族層による農村と労働力の再編成がここでも進展したのである。
そのため律令国家本来の収取方式は、個別人身的な課役に対し、土地への賦課が一般化した。戸籍・計帳の作成が形骸化し、検田帳や収納帳によってあらたに個々の耕地ごとに課税するようになった。そのさい納税請負人となったのが、富豪層などの在地の有力者であった。行政組織も、国郡郷制から、郡を二、三分割した徴税組織が認められ、「郡司」や郷司などをおいた。周防国内の西玖珂郡・大前郡、長門国内の厚東郡・豊東郡・豊西郡などの場合がそれに当たる。